2012-10-01から1ヶ月間の記事一覧

江戸時代中、それを藪原でも眺めるようにして暮らしてきたのが上の家であった。

(この間は、激しい藪睨みのお祖母さんがいたが、この上の家伝来のスタンスを記さんが為の登場であったに違いない。 もしかして藪睨みという言葉自体、坂の上の上の家に由来していたのかもしれない。) 分家の者達を動物呼ばわりすることがあったりして仲が良…

上の家は代替わりしても、分家の家はそのままである。 

しかし、世界組織の底知れない大力(金と物)に抱え込まれたら最後、昔の通りに静かに暮らしていくことはできない。 一軒(西の家)はフォーク給食の家となり、もう一軒は舞台仕事人の接待家となる。

1700年代の地下組織との出会いが運命的であった。 

結局は、世界組織と契約を交わしていた藩の思惑通りに、世襲の座を井藤氏の先祖に明け渡すこととなる。 雇い入れは他の藩でも行われているが、南部藩では農民雇いであり、田拓きの功績によって庄屋、刀差しと身分が上昇する場合がある。

北上市でも一番に古い家柄であろう

上の家には、当然にもいろいろな時代がある。 以下追記補足しておきたい。 残念ながら写真作業にストップがかかり、緑鮮やかな本内部落周辺のパノラマ写真をここに紹介することができなかった。

上の家は、訳合って、江戸時代以前の古墓を土中に埋められるという事件に遭っているのであるが、探知機で探れば掘り当てられるであろう。

同様に江戸時代及び江戸時代前の古文書も沢山あったであろうが、江戸末期と思われる頃の火災の為に全部失われている。

上の家は、当たり前の事であるが、強盗を働いたことはない。 人の物を掠めたことはない。

冬の間は、栗と芋を焼いて日を過ごしてきたのであった。

精一はコメを増やすことしか考えていない(が、こういう山間地では、上の家の進んだ食べ物文化を保った方が楽でもあり体にもいいんだよ。)

上の家には粒柿の木があり、大きな茱萸の木があり、小さくて固い実のなるリンゴの木があった。

日の当たる道路際の空き地に生えていた花梨の実と共に、漬物にすれば何とか食べられる果物品目であった。

上の家は裏の畑にユリを栽培していて、ユリの根を食する食文化を有していた。

鬼百合は山間地の畑土にもよく生育する作物である。 これまた湯田澤内村内には珍しい作目ではなかったろうか。

上の家は、山内丸山遺跡の先輩の食文化を相続して、屋敷に栗林を経営していた。

湯田沢内村に栗林を経営していた用心深い賢い農家があったであろうか。

上の家は裕福で、倉を持ち、1600年代の記録に依れば、小豆や栗の貯蔵を盗みに入った泥棒を追いかけて自分で縄にしている。

本内部落の農地山地はかつて、すべて神社経営の為の領地であったと思われる。

こういう形態は、江戸時代には見られないことではなかったか。

江戸時代の1700年頃までは、地域に尊敬され続け、旦那殿の呼び名で頼みにされて、代を重ねてきたようである。

かくて金の道の安全祈願所西神社は建立され、神職の者達が派遣される。 1100年代の事であろうか。

むしろ、ここだけに蒼前社系の子孫達が大勢いたという発見メモであったのかもしれない。 他の記述はほとんどみちのく各地からの流人や野人の様態を描写したものではないかという、大観的解釈が送られてきた。

これだけのメモでは、誰がどこに就いたか特定できるような中味ではないようである。 前沢人も、私達は平家だ、などと名乗って採用されたものであるらしい。 一般的特徴として、どごさもいがない身の置き方、というような勤め振りを伝えられることがある。 岩…

現在の牛の博物館近辺に在していた、という記述があるようである。

白鳥の館跡に近い。 真衡の館攻めに功のあった先輩であろうか。 そんなことはない、という一報が入った。 前澤にいる伊達藩士家系の人達の先祖であろうという。

この頃の神職官人の子孫達の様子を記した古記録が伝えられているという。 

筆者も蒼前社の仲間であるのかどうか。 すでに平泉の官僚としてある地位に就いていた者の筆に違いない。

田村麻呂軍以降、王土は雫石川を渡り北上し、盛岡滝沢を包含する。 しかしやがて安倍氏独立体制の世の中が訪れる。

神官及び社人達は暮らしに困ったのか、身の振り方はどうであったか。 藤原氏平定の時代に入ると、会いたかった、会いたかったと平泉に駆け寄る。 京都人の流れ者、二百年目のランデブーなどという表現がある。

上の家神職子孫達の、みちのくにおける最奥のルーツは、京都発蒼前社赴任にある。

蒼前とは、田村麻呂が天皇から下された名馬の名前である。 前とは足の事である。 足の色に因る命名である。 蒼前は奥羽山脈側の古道、恐らくは北上市横川目辺りで病死し、その御魂は何時の日か水沢の駒ケ岳神社に祀り直される。 その時にすでに地域の最高の…

上の家の最終的通信簿を届けてみたい

これは瑞巌寺傍らのお堂。 ホテルの振り子時計。 節約の為一晩駐車場を無断拝借。 以上は、思わずにも、昔日のアイデア発信器の記念物を写し並べていたようである。 被写体美人に取り囲まれて、遂に敷地内に立ち入り写真芸術家たろうとする。 以上松島で。 …

本内部落の賑やかな消長の一部を紹介する。

西の家直系の者はすでに絶滅している。 本内部落にいる長男家族の事しか知らないのであるが、明治の世には鹿児島人が上がっていたようである。 次に一団の入村と共にブリヤート人が座って、そのままに世代交代していると考えていたのであるが、蒼前社神職子…

西の家についての補正追記分を再掲載する

すべてダリア。 同じ株から咲く花であっても、月日、身の回りの違いによってそれぞれの個性を発揮している。

特別に下の家について。 

神社下事件があまりに大胆であったようだ。 江戸時代の入村以来代を重ね、川向こう移っていた上の家本来家と姻戚関係を結ぶほどになっていたのであるが、自分が地域の者を嫁にするとなると、被害者の側から遮断機行動が出る。 許されていなかったのである。 …

本内部落の賑やかな消長の一部を紹介する。

西の家直系の者はすでに絶滅している。 本内部落にいる長男家族の事しか知らないのであるが、明治の世には鹿児島人が上がっていたようである。 次に一団の入村と共にブリヤート人が座って、そのままに世代交代していると考えていたのであるが、蒼前社神職子…

上の家の者が西の家の者を評した言葉がある。

無邪気な子供のように、言われた通りの事を無計算に勤める気でいる。

キュウ閉とは、四歩もない牧畜業の生活実態を表現した言葉であった。 

そこに仕事人の後がある。 ジュースも我慢できない。 番場の忠太郎をやろう、と自立的に考え出した生活工夫であったようだ。

上の家本来の血筋を分けた家が孫屋敷地区に四軒も並ぶことになったことを前回述べたのであるが、

もう一軒娘さんだけが預けられていた直隣家が加わる。 血筋由来を聞かされた時は泣いたそうである。 本当は克子という名前で、パートツーの者をキュウ閉してしまおう、という魂胆の置き子失礼ではなかったのだろうか。 昼休みもないグループサウンズの徳川氏…

上の家と西の家との分れは、後者が犬を怖がった事によるという報告があった。

(それで岩手県道路地図には、滝沢分れという引っ掛かりポイントが臍のように表現されているのかもしれない。) その700年後のことに、西の家の止めの一撃のようにあげられる押し入り強盗事件がある。 しかし、これは単純な強盗事件ではなかったようだ。 藩澤…

顔といえば、江戸時代に下るのであるが、大名間に評判のあった福助実在人物にそっくりであった

というので、藩からフクちゃんと渾名されていたようである。 似顔絵でもあるのか、その顔であるとでも言うように、長谷川一夫の顔がスクリーン大写しに紹介され続ける。 原点は大丸の形であったようで、団子顔とか、ヘルメット型頭というのは、一千年近い湯…

二人(三人?)とも平安王朝派遣の神職の者達であり、みちのく京都人としては先輩格である。

僧兵ぐらいの者では藤原公の朝の庭に参りたくない、と気位の高いことを言ったというような、「教師」職位の者筆記の古記録があるという。 我等は、石清水八幡宮社家紀氏たるものの一枝ではないか。 僧兵の成り下がりでは苦しい。 このように読み取ると、いろ…