吉右衛門の死後


コピーする者の母の父に当る長男の吉太郎は、学問と文字のある人であったが、事故死してしまった父親の影響もあって、思い通りの進路が開かれず、父の死後は迷った挙句、覚悟を決めて家に戻り、負債の家を荷ったという話であった。
この話向きでは、家を出ていたことになる。
吉太郎の父は家族の者が誰も近寄れないくらい荒れていたという、母の話であった。


この乱れた父の影響や、すでに20年、30年と潜っていたであろうこの地下活動に囚われていたこともあってか、驚いたことに、長男吉太郎自身も若い頃は、なかなか大胆に奇矯とも思われるような行動に踏み込むような、病的な状態の時があったという。
今と同じように、代々部落を代表するような篤農の家柄であったのであるが、近隣の友人がその様子を見て「しゅうきに中(あた)ってら」と語っていたという。
地下からの射光器活動電磁波活動にも気づいていて言われた言葉であろうか。
大きく、怒っている状態自体を指していたのであろう。


学生時代、家の事情もあって楽でない経験があったらしい。
そして、なかなか立ち上がりの早い地下活動の世の中でもある。
きっと、その筋の者として、周りにいる人達を見分けるような経験を積んできていたのであろう。
何かしら通じ合っている人達、家の不幸の原因となっている人達とは違うのか。
しかし家を傾かせるような工作を働いている人達とはどういう由来の人達であるのか。
学生として裕福でもあり、日本国の学校の教師にまでなって並んでいるのではないか。
現実に、以後前進するばかりで止まることのない、日本国どころか、世界中をひっくり返してしまうような、大規模な陰の工作が、きっちりとした計画の下に眼には見えないが、地域のどこかで常に忙しく働かれていたのである。
その深みを覗いたような気がしていたのだと思う。


用意されたように、見えたことから付き合いが始まったらしい。


奥から言えば、これもまた、地下活動の計画された儀式の一つと数えていいのではないかと思う。
実際はどこまで真実か分からないことがあり、本当は噂にすぎなかったということもあるであろう。


すでに校舎の地下での小学生としての待遇もいいものでなかったという証言がある。


吉太郎の人生はスタートから苦いものがあったようである。
なぜか「若い時、(思うように)本採れなかった」という回顧の談は、以上の状態のことを語っていたといえよう。


そして、この頃にもこの地域でそのような地下活動に潜入していた人達の子孫が、今日本国のトップを取っている様子であるという。


上に記したような事以外にははっきりとした悪評は全くない人だったと言えるのではないだろうか。
安定して忍耐と節制の人生を送り、全うしたといえよう。
ただ、別の何かの意味で、この地下活動とは、長い人生のその時々の付き合いを無下にはしなかったという情報もある。


嫁を貰う時は、隣村の自慢の娘にあった二つの縁談話のうち、金でなく人を見込んだその娘の父親の判断で自分の方が選ばれたという。
夫婦仲は一生涯安定して好かったのではないかと思う。
四人の成長した子供を見ると、不良はおろか、怠け者は一人もおらず、子育ては地道で濃やかなものがあったと思われる。


戸主となってからは、全財産が借金の形になっていたので、人生はただ借金返し、先祖代々の田畑の回復のためだけであった。
質素倹約、一時たりとも娯楽放蕩に分別を失くさず、賢明に忍耐強く人生を全うした人であった。
文書もよく解読し、冷静にものごとを教えてくれて、家族の者の信頼は老い病んで床に伏してまでも絶対であった。
どうしても「じさ」に教えてもらわないといけないというので、無理にも外に出てもらったら、そのお月さんがもう眼が利かなくなっていて見えなかったという話がある。


地域にもいろいろ貢献したことがあったであろうが、部落の利水工事でリーダーシップを発揮して、その当時ではまだなかったコンクリート溝を造ろうとしたそうである。
その為福島方面から自分でセメントを背負って工事現場まで運びこんだという。
朝日山脈の長い山道を歩いたのであろう。
風貌に長い難儀な人生の忍耐が、物言わぬ威厳と風格となって現れていて、おのずと近寄りがたいものがあった。


農業のかたわら、測量登記の仕事もしていて地域内を広く歩いていたようである。
村議も勤めたようであるが、一期で退いている。


親の無念をどう解釈していたか、地下活動の世の中を警戒する気持ちが強かったであろうと思う。
母から聞いたことは大概、母も自分の父から聞いたことであろう。


母の兄、長男と次男は二人とも出征。
兄は中国南方で戦死、次男はシベリアで抑留となって、男手の働き手がいなくなって、母は小学校の頃から大人と同じ田起こし労働に田に入っていたという。
長男は手紙を毎日家に書いてよこしたそうである。
親勝りの竹の子といわれた秀才だったそうで、相当に惜しまれたそうである。
その筆と挨拶に触れた京都の方が養子に欲しいと頼んだそうであるが、すでに妻のいる身なので、操を立ててお断りしたそうである。
それでは家族ごと引き受けようと、説得しにみちのくまでやって来たという話があった。
たたき上げの軍曹であったらしい。


次男はたんだおとなしく自分をひかえて、家の安寧と子孫の繁栄だけを考えて生きてきた人であった。
警部にまでなって県下を歩いてきた人であるから、人当たりがやわらかく、よく気を配ってくれたものである。
町議も頼まれたそうであるが、こわい、といって一期でやめたそうである。
こわい、というのは、なにかやばい、という意味ではないかと思う。
農業のかたわら、警部の経歴を生かして司法書士になり、自分には何にも使わないで、孫の小遣い稼ぎを生きがいにして生きてきた人であった。