江戸時代に注進に及んだ家だということで発見されたに過ぎない


桂小沢の家の事を言えば、運動に出会って酔っ払ってしまった先祖が出るまでは、部落を代表する名誉あるだけの旧家であった。
組織の思惑があったとすれば、ちょうど見合うような出会いが用意されたものと思われる。
何で同じだろう。
文書で調べる限りでは、小国郡でも桂小沢の家は、百姓一揆代表活動で、組織の研究員の目を引いたと思う。
注進に及んだ家なのである。
地域での運動の始まりの頃に、半島では、宗教戦争でもあり、政治闘争でもあった百姓一揆が盛んであった。
葬儀についても個々のケースにおいて注文をつけられることがあったようだ。
「和尚さん呼ばないで埋葬葬儀してら」
今は日本国でも似たようなことがある。


近くの集落に「ねづ」がいる、という話があったが、別に昔の神社関係の方らしい。
もしかしたら、「ねぎ」の聞き間違いであったかもしれない。


桂小沢の家に、その頃日本にも珍しい映画撮影機を、東京からであろうか、遠路はるばる担いで入り込んで来たグループが、家の者に率直に言ったという。
でないとびっくりして警戒してしまって家に入れてくれないであろう。
今でもたとえばTBSのカメラが、説明もなしにいきなり入ってきたら、萎縮してしまって拒もうとするであろう。
「証拠を取りに来た」と言ったという。
分かりやすく言うと何の証拠かというと、時代背景を借景として、不逞を働く不法侵入外国人を退治する、銃後臣民の天皇陛下に対する忠誠心であろう。
わざわざ貴重なカメラを担いでまで朝日山脈のふところに来たのであるから、自然に発生した事件の要素はない。
出演者も用意して、さぁスタートということである。
すべて予め計画を立て、手配して作り上げた芝居である。
それは桂小沢の家の人達にも知れ切ったことであったろう。
相手をした事もあろうが、どうせでっち上げるのであるから、無理矢理にも、できないことをあった事にした、証拠もあったと思われる。
二階建ての邸宅でもなく、見覚えのある昔の農家の薄暗く小さな所では絶対に不可能な、仕掛けのものもあったであろう。


話が変わるが、イギリス人の地下活動はそもそもご不浄事件を好んできたようである。
そして今、めちゃくちゃに「えばる」者がいるように、いなくてもいるが如く仮想して、傍迷惑を働く活動が日本国中に展開されているようである。
コピー係りなる者は、嫁ももらったこともなく、無位無名の市民であり続けるだけの者である。
そんな膨大な傲慢事件に見合う人など、もともと現実にいるはずがないのである。