コピー係りの周辺の再確認


コピー係りなぞ無きも同然な世の中の進展と無体であるが、コビー係りの周辺の人間であるということで、かなりの人数の人が地下活動の暴風に見舞われているようなので、ここで再び周辺の昔の人の事を思い出してみたい。
実はコピー係りは素直にかの村上家の長男というのでもない。
少なくとも、父健一が鹿児島生まれで、戦後直後に、亡くなったその家の長男の換わりとして送られて来た人であることは確かである。
着いたばかりの時は、進んで組織活動と呼応する心構えであったと言われているが、意外にも周囲の人たちが犯人扱いをするのと、自分自身訓練不足の事があって、思いっきりに断念したという、経過があったようだ。
義弟妹に優しく、一生涯忙しく無世間に、趣味を有さず自らの喜びを抑えた、いわば作男の人生に徹した人と言ってよいかと思う。
本性堅物で、不正直を働く人間ではなかった。


最初に、忙しいと言って運動に振り向きもしなかった武蔵も、こそこそとした物盗り、性堕落とは一切無縁な生涯を送った人であることをここに再確認したい。
老後に、新内流しのように、一人でお経文を唱えていたようだという。
桂小沢の隆太郎の青春時代について、推理が二転三転した。
分別を一生涯無くしたことのない冷静克己の80年の人生を知らないでは、その深く意図する所に接して理解することができない。
すでに私的警察官としての評価は古くに決まっていて、アメリカの映画などのモチーフとして取り入れられていた。
それが今、ブログ記載の為の調査推理のテーブルで、その警察性を何度も疑われる。
しかしやはり、思い切った意志的な踏み込みであったと、組織団の入村状況を考え合わせることよっても決定された。
しかし更に、ハリウッド方面から疑いが返される。
その頃に、父隆右衛門はまだ事故死していなかった。
父親の死亡事故を事件と思い、怒れる隆太郎というのは嘘である。
軽薄横暴の者である。
それは全くの誤解である。
家族の者が寄り付けないほどに、日清日露の兵役帰りの実業家隆右衛門はアルコールに中って荒れていて、家産をすべてかたにしてしまっていた。
そのために学費を送ってもらえなくなり、無念にも中学を中退せざるを得なくなってしまったようだという。
むしろその父親が亡くなった時には、ホッとしたようであったと伝えてくれる人がいる。
思慮深い、と却って言われることのある人間の捜査努力の後にあるものは、深い覚悟を持って何らかの発展を強く追い求めた行動であったろうと想像する。


縦貫道という地下室が近辺にある。見えるとか、安全だとかと言って誘っているようだが本当か分からない。
近くにかなり広域に環七のように地下道地下室が巡っているという。
2,30箇所の銃撃室、催眠室が潜み、意識不明女性診察室があり、解体所があり、遺骨集積所が連絡して配置されていて、陸に一度も運び出されなくとも用が足されているという。
河原近辺でのじゅうかんというのが、武蔵辺りに押し付けられていたようであるが、よく読むと誤りであったらしい。


日本に日振という地名の土地が二箇所あって、その土地にライオンと呼ばれる二人の兄弟が、明治初めにも分かれ分かれに送られて来て住み着いたものであったという。
前にもゲーテの子孫が、やはり日振地名のある二つの県に住み分かれていて、以後大いに活躍されておられるという話を書いたことがあった。
明治初めの組織の大企画の一つに、二分け様に、というのがあったらしい。


何度も書けば、村上の家と桂小沢の家二軒は、地図地名古文書によってのみ発見されただけの家である。
村上の家は泥棒を追いかけ捕縛した家として、桂子沢の家は代官様不十分の越訴事件でS通り古文書一番に顕著な家として。
他の文書による予備情報は何もなく、何か悪い事があるによって選ばれたという疑いを持つ事はない。
ここからその後、「まるた」とか、「ゆう」とか、「ちゅうしん」ある、けねとかの言葉使用があり、実は誉れある由来に絡まるように悪戯の立案工夫が行われてきたのであろう。


常に病に苦しみながら、電気料の心配をし続けてコツコツと貯金を積み立ててきた、粗衣粗食の父と母の人生を無駄にしたくない。
花見も祭りも紅葉散歩も湯治安楽も歌も踊りも知らずに60代で亡くなり、意識を失くした父と母の為に、組織そのものを余す所なく指摘するチャンスを精一杯に使い、その実を上げたい。(Morse, 申)