キミ畑は


 昔の因縁話はみんな明かされるのがいい。
 武蔵がボロを着て鶏小屋作りをしていた時に、八卦見の出会いがあったということであった。
 「忙しい!」 (顎が上がるぜ) (武蔵の少年期の顔も特徴的に顎が長かったのではないか)
 もともと古文書で泥棒を縛った家だということが見つかっていたので、わざとボロ着家畜相手の時を見計らったのかもしれない。
 振り向いてもくれない。
 里見京子なる女性も鹿児島発の人だったのかもしれない。そしてその女性関係者の家族がそのまま村上家の最近隣の分家の家として住み着いたのではなかろうか。村上の分家でなく、臼田旧家の古い分家の家の分家として。
 岳村は、都合、糸右衛門、臼田家、今述べた最近隣の分家、そしてやがて村上家と、賑やかに鹿児島発の者が座る集落となっていたのである。
 武蔵がよそ者相手に苦心している時、急いで茹でたとうきみを持って来て接待してくれたお上さんがいたようだ。恐らく村上の家の隣、臼田の古い分家の嫁であろう。旅人を接待する家ということになろう。戦後、集落内では一番に教育のある家で、広く信望を集めて議員にまで選ばれている。
 定かではないが、村上家の母親か誰かは、山村に正体不明に踏み込んでくるよそ者をごく自然にも、「キミ悪い」と表現したようである。いずれ運動を振る家と決まっていたのであろうが、わざとにも言質を取られて、逆に痛く運動に振られる家となってしまったようである。
 コピー係りの母親姉まで、料理は下手な家であった。それでも母はがんばって「世間も知らずに」下宿人を置いたことがあった。夫が倒れて困った上の大決心であったろう。
 彼(か)の家の嫁にやったが、戦時下の事情で子供の頃から働くばかりで、料理というものを教わらない、学校も尋常だけの者だが、いいのか、と父親が話していたという。組織のからかいからもそういうことになっていたのであろう。