頼朝の子孫御三家  (Bob, 田)


 大事件を相手にした場でのんきな記載であるが、以前触れた事でもあるので、この頃読み知った地域の領主様の昔話をお届けしてみたい。
 地域400年の大名W氏の先祖話に、源頼朝が伊豆の伊東氏の世話になっていた時にそこの姫と結ばれ生まれた御子であるというのがある。家来斉藤四五兄弟がその赤ちゃんを中條氏八田氏辺の養子に運んでいたという推測があり得る。まんざら嘘ではないかもしれない。猶子養子というのは極当たり前の武家の世の中である。源氏の棟梁の御子なら頼んでも生み落としたかったであろう。
 しかしW氏は秀吉の奥州仕置きで滅亡する。二三伊達藩等で仕えた家系がある他に、H氏というものが領主として江戸時代にも存えていた。江戸城に出仕すると、何とその伝説が徳川幕府城下に真説として生きていて、辺地上がりの小藩分際が、W氏の流れあるに因って、同じ伝説のある藩主の先輩の座に待遇されていたと、ウィキペディアに書いてある。
 陸奥地の城跡近くの町に、かまくらの由来を書いた地味な掲示板が立っていた。横手市かまくらが有名で、誰も眼も止めそうもない由来書きであった。鎌倉伝来の正月行事の事のようで、今でも賑やかに地域独自の祭りとして受け継がれているようである。またW氏旧領地内に、設計されたように各方角に八幡神社と神木いちょう樹が配されている。一部その子孫樹かと疑われるものあるが、そっくり同年輩(600年か)の老樹である。神社は江戸時代の敵性大掃除に遭った為であろう、跡形もない所が多い。この奉納植樹の木を公孫樹と表記するのは偶然な事ではないであろう。
 頼朝子孫伝説のある大名に、もう一つ、島津氏がある。この場合、大藩であれば御子待遇など無用であったろう。
 鎌倉幕府一の武将、和田義盛の養子にも目されており、小身上がり軍歴無名の者を名あるものとして殊更釣り上げようとしている配慮が窺えるようである。あり得る事である。他領主の場合も、やはり小身無名の者を頼朝が直々に取り上げ扱ったようないきさつが記し残されている。
 隠し子を過分に取り立てて、陸奥と九州の後背地の領主に配したと解されなくもない。


 この地下活動の指定地N町にもW氏の子孫が身を隠して住み着いている。流れ住み着いた者である事の証拠か、地域の地図で見ると、各地域に遍在している古くからの苗字の人達と違って、本街道沿いに一塊になって居住している。同じ落城逃亡兵由来の家系が三つ四つあるが、北、中、南と計ったように、街道沿いにわざと分かれて住所を構えている様なのが見て取れる。


 このN村一の名家にS氏がある。子孫に三代の陛下に仕え、侍従武官長にまで上られた方がいる。旧領主W氏と因縁深いK市内の神社周辺に必ずS氏の集落がある。その同じS氏の者が集団で地下組織活動の依頼を受けて、この特別地N村の所々に住み着いたのであろうと想像される。町村史に拠れば移住は江戸時代以内のことか。
 いずれにしても、江戸時代の村人の手による年代記の記載に、組織から何かの手が入っている、という情報を届けられたことがある。