再びコピー係りの立場を明らかにすれば

 
 
 三枚目の写真は国道沿い西の方角。集落があった。村上家が江戸時代には本家旧家である記憶を有していた老人がいて、村上家の主婦が訪れると江戸時代の屋号を口にして、特別に改まるような気配があったという伝え話を母がしていたのを思い出した。ここにあった集落からは段地上にあった村上家の屋敷が見えていたと思われる。四枚目の写真画面中央真南方角に県南部奥羽山脈中最高峰の焼石岳(あるいは手前の南本内岳)が望める。珍しい見え易い方角。



 あんど運動の初期のテーブル上には、世界各地域の資料として地図ぐらいしかなかったのであろう。
 主義とする精神がないから、モティーフとして地名の音のある類縁が目を引くものの一つであったろう。
 遠い部屋遠い声の趣味から自然、極東の列島群に眼が止まる。
 そしてユダ。山口とみちのく。
 シチュエィションと屋号から旧家らしい家。
 泥棒を縄して番所に届けたことを記録している藩の古文書がある。
 八卦したというが、運動を振ってもらうのが本願であったろう。
 明治の始まりの頃、ロボットでもあるまいから、すぐ計算高く尾っぽを振って近寄ってくる場合があるかもしれない。
 鶏小屋の掃除仕事をしている所を不意打ちしたようである。
 「忙しい!」 「振り向いてもくれない」
 その後の百五十年間に、婚外子とか赤ちゃんポストの疑惑を組織から聞かされている。親や親類縁者から聞かされたことではない。
 関東大震災当時地域の安全のために歩哨警戒に立ったことがあったという。
 戦後に他の家の場合と同様、撮影スタッフが訪問して来て、お付き合いをしてしまったことがあったらしい。運動組織を背景にした東京からのお客さんたちを振ることはできなかったのであろう。それは他の家でも同じことであったと思う。実際はエプロンあねさんの役を頼まれただけであったという。


 百五十年間少しもはかばかしいことがなく、ある種常に重病人の家であった。運動を振ったというので振られていたのである。気味悪いという言葉も返されていたようである。軽蔑の対象でもあった。人と伍するまでに至った者はない。
 すべて最後には、運動を法秩序の違反者として何かしらの形で捕縛してもらいたい為の仕掛けであったと思われる。
 コピー係りもすでに何の位も受賞もなく、明日に何の位も受賞も襲い獲得する心と用意にない。
 驕慢に人を食べる運動とは真実には全く無縁である。コピー係りのボランティア仕事は一人でできる。これだけの内容であれば、自ら無償で地下作業を手伝う人も必ずいたと思う。危険がなければ。


 (お世辞運動に)「いないよ」
 昔から、恐ろしい空世辞と評判を種にして、何かあるが如く小止みなく、展開され世間を騒がし続けてきたあんど運動であった。決してその家の者は、どのような出世と繁栄のステージの上にも前にも存在していなかった。祭り騒ぎそのものが面白いだけなのである。先に何の定かな終着点もない。
 無縁に、精一杯世の中に振る舞い踊らせるのが狙いであったのである。
 今もそっくり同じようなことがある。
 その家の者達は皆珍しいくらい気弱く、おとなしい人達である。また貧しかった。
 最後の望みであった弟も、クラスで一番貧乏な家庭の子弟であったため、組織の言う所からすれば「何たらや」と驚かれていたらしい。病み上がりの父は最後まで契約社員の手取り十万円台の給与しかもらったことが無かった。趣味遊びで贅沢をすることも知らなかった。その素朴実質のまま忙しいだけであったようだ。


 組織の作戦の奥底には趣味しかなく、庶民の勤倹貯蓄努力を惜しむ感覚がない。実利実益を上に置かない。その家の者達は忙しい為もあって趣味が無かった。