コピー係り自身の身の上

  (宮沢賢治全集。偶々本屋で一揃い並んでいたのを見つけ、両手に抱えてカウンターに運んだもの。全部で9,700円。書簡も手帳もあり、プロ的な探索のお手伝いがこれによって可能である。)



 後に顎の上がる仕事をする定めであるから、150年、半生50年間何も良いことはない。
 軽蔑するばかりでなく、最悪に忌まわしいもののように言う者もいた。総じて真面目で、ずるい者は一人もいなかった。
 戦後までは、鹿児島藩士流れの刀自の家であったといえよう。
 父の実父に当る人は、日米関係の背景で、忌みを回されていた者なのだという。なまって「忌まわし」と言う。忌み、とか。「ウンコ」呼ばわりされることにもなる。「泥人形」とも呼ばれる。すべて江戸時代京都に発する言葉で、二次的な儀式的な御用によって無関係な一般庶民に及んでいるのである。きまじめな国民に向かってそんな事を言い立てていても空しい事なのである。
 父は一回しか買ったことのない小型耕耘機を何回も何回も手直しして、死ぬまで使いこなしてリヤカーを引き続けた。自転車も二台目を買えばいいのに、翌日朝早くまた乗らねばならない自転車の頻発するパンクを修理してはやっと夜遅い夕食を取りに家に入ってくるのであった。テレビなどは観たこともない。眼も見えなくなっていて、朝食事母が何とか音読する新聞記事だけが「趣味」の時間の人となっていた。
 その勤勉正直質素規律努力の生活には誰もが感銘を受けたものと思われる。絶望と安楽の為に人生を投げた一瞬もなかった。間なく前向きで建設的であった。
 母は小学校しか出たことがなく、これまた質素勤勉の典型であった。百姓だけでは子供の学生服も買えない時に、常に塗装手伝いやクリーニング工場など人の嫌がる薬品現場でようやく仕事を見つけては働き続けた。汚れの落ちなくなったパンツも継ぎ接ぎしてがんばっていたものである。物を投げる事を知らなかった。
 信心深く、貧乏人の恥をかかせられてもお寺通いをやめることはなかった。上の家の先祖の追善供養だけが後半生のテーマであった。何もかもがそのために過ぎなかった。花作りも、無尽の付き合いも。
 遥か昔に鹿児島から渡ってきた人が先祖にいるようだが、暮らしが楽でなかったばかりで冷たい経歴は有さない例であったと思われる。
 他人より遅れて地味な質素な事、作法のない事を恥じ、めげるような心はなかった。


 レポーター役の人生など貧寒としたものであるが、何であったかといえば、プレス工メッキ工をして来た者と答えられる。社会人教育の例で初めて事務の手伝いが出来ているのである。
 運動が明けられてしまう為に姉も弟も伏せられてしまったのであろうか。誰一人人並みに趣味というものを持つこともなかった。そして運動というものは頭から尻尾の先まで、「趣味」の外というものを微塵にも評価できない心のものなのである。


 A 氏、B 氏 のご奉仕に相応しく報いる為にも、必ず、300年目の革命仕事として

地下を人の世から悪名記載と共に放逐し遂げなければならない。

 情報によって人の道が勝つように定められている。


■入れ換え事件の手口 (Jack & Park)


 もはや上の家の者が住む家の下には電撃銃が何台も据え付けられているようだという。

 銃とは箱の中から、あるいは壁、仕切りの陰から被害者の胸を狙い撃つ仕掛けの物である。胸を狙って剣が突き出るようなものであるらしい。アニメに出て来る電磁波ブレードというものが実現されているようだ。

 隘路、コーナー、放送室、棚、壁向かい連れ立ち。敵も応援もない。グループ指定のようだ。英組織大工夫の野獣詭計に出くわしているのである。

 ガス室というものもあるらしい。中が明るくきれいに出来ていて、つい誘い込まれているようだという報告である。

 そして地下室内、ホテル、バス車中、自宅知人宅小パーティでの催眠薬入り飲食。飲み物を携帯しよう。


 ここだけでやろうとがんばっていた人がいたという。

 怖くて入れるところではない。


 (トンネルズはバス車中で眠らされてしまったようだという。三人しか乗っていなくて、もう一人付き人かの勧めに簡単に応じてしまったようである。盛岡市の夕顔瀬橋近くガード下辺りにも誘拐用のバスが停まっていたという話を聞いた事があった。近くに処理室があるのだろう。)