組織の奥でも罪がない気でいるのではない(J &P)

    (死ぬまで締まり屋の母親が父親と二人して共に不自由な体で天井に掲げ上げ収納した稲杭。一生涯の仕事に続けてきた百姓仕事もとうとうできなくなって、その収めの心の作業でもあったのであろう。丹念な百姓人生の努力を鼠食いされたくない。)
 



 卑しいものだ、と言っているのである。
 こんな大量事件未来永劫に見つからないでいられるわけがない。
 これほどのことをし出かして、罪を問われないで済むと考えていられる人間の常識があろうか。
 指導する方でも、その無責任な罪の盛り上がりこそがたまらない心底であって、罪がないと思って無刺激に見上げているのではない。


 じゃいなくていいべや、と言って日本人を追い詰めているそうである。するとそのお蔭で生まれ換わった人達も前の人達のように勤めるのでなければ順番にいなくてもいいという事になる。嫌で断ったためにやられるのであれば、好き嫌いもなく勤めるのでなければ生きていられない計算になる。
 ところが前の人達が責められていたほどに責められるような仕事などあるわけがない。ペテンだからである。その意味では何の仕事もないヒマ人でいるはずである。だぶだぶだぶだぶと日本人を食べた人間が増えあふれて行くばかりである。
 日本人大量被害作戦のペテンであるから、「仕事」のない者がいくら増えてもきりがなく、生きていなくていがべや、生きていなくていがべや、と日本人ばかりが責められ続けているのである。
 一部コピー事務の手伝いもあるが、お返しには足らない。ボランティアで勤めてもいいようなものを、クゥークゥーと、何時か足りるという事もなく、常に日本人を食べようという構えである。魂胆は民族図である。外国人運動の未決済高をできる得る限り日本国土に盛り上げたいのである。無駄に増やしている。
 殺人外国人はいない方が何でも彼んでもいい。
 運動反省の仕事なら殺人鬼と会うのでもなければ手伝う人はいたし、これからも必ずいる。


 もはや見つけることこそ、あるべき、辿り着くべき行き先である。
 この重大事を受けて、次に来るべき十分に相応しい目的もない。