「ショパン、ひよこだ」(Adams)

 ヒヨコでもヒヨコぐらいには認められるという、この場合は肯定的な、大変に贅沢なお言葉なのであろうと思う。
 バッハ、ベートーベンを把握損ねて、その把握損ないに中てられたが為の、ヒヨコにもならない新機軸、模様音響右往左往に、世界史が囚われてしまったという事なのかもしれない。
 一言で言うと、根底的に、素直でないということであろう。

 バッハの名がみちのくの、春初めの雪解け水の光り輝いている印象にゆかりがあるとしたら、その大胆な無伴奏曲もやはりみちのくの、立石寺の参道にゆかりを有していたのではないかと想像される。 
 昔悪いエージェントがいて、福原遷都などというストーリーのない味気のない事が出来してしまった。 清盛は化け物の夢を見て魘されていたようである。 福原の夢。 歴史の土地にその頃の出来事の内実を伝えているような地名が残っているようである。 夢とは英語のドリームの夢では決してない。 日本語には夜睡眠中に実際に見る夢の意味しかなかった。 兵どもが夢の跡とは兵達の勝利の望みに働いた跡という意味ではない。 夢は枯野を駆け巡る、とはもう一度枯野を駆け巡るのが願いであるという表現ではなくて、毎夜枯野を駆け巡る夢を見ている、という真実実際の表現なのである。
 その道案内人が、世界史とはあまりに「落差がある」と勝手にストーリーを変更して、山形の方に入ったことがあったのではないかと推理する。 どうせ言葉のモチーフ採集に行くだけのプラトーン旅行行き先地であったのだろうから、世界史との「落差懸隔」などとは無関係にストーリーを守るべきだったのかもしれない。 これによって、無伴奏の曲を案じ産出しなければならない。
 みちのくにはすでに、後のジョージ・ワシントン米初代大統領と縁のある人が上っていたという話である。