平家物語中侍大将高橋判官長綱

 工作的創作が根底に潜んでいるのではないかという疑いを払いきれないものと考えていたが、今回、眼の前にある資料を睨み合わせているうちに、ややややっ、ある程度の繋がりが見えてくるではないか。
 平氏の落人伝説地を見ると、大体二つの集合があることが分かる。 一つは四国九州。 測ったように四国九州のど真ん中の山村に身を潜めている。 世の中真っ二つの身の置き所のない状況が身に迫っていたのであろう。 
 もう一つは、白山麓、越後信濃陸奥国境山中。 
 四国九州の場合、有名な屋島壇ノ浦の敗戦平氏滅亡の果てと知れるが、日本海側の落人集団の方角は一緒に考えるには少し無理があるようである。 しかし簡単なことであった。 基礎義仲軍の進路そのままの方角で考えられる落人伝説であった。 信濃で戦い越後に向かい越中を経て加賀で戦い、琵琶湖東岸を下って京に入っている。 
 加賀篠原の戦いについては平家物語に詳しい。 大将軍六人の内の一人として高橋判官長綱の名が上がっていて、首を取られるまでの始終が語られている。 1183年頃の事か。 
 沢内の方の年代記にある記述には、肥後の産筑紫の高橋浪人、筑後の産の婦と共に、藤原氏家臣の流浪漂白互いに憐れみ深い沢内山中に来たり隠れ住みけるが、歳月を経て男子二人を儲けて愛育てける。 世にありし程は雲の上人にも立ち交じりて、月にもめで花に詠して、−−−。 1198年11月浪人は魔生の為に命を奪われ、高橋が妻は1199年旧4月8日病に伏せて往生す。 子兄弟は太田の村に家宅を営じ村長と成り栄えけり。 また羽州(山形秋田) 村山郡にいた本当の平家の一族の人々沢内に多く隠れ住みける、ともあるが、その後も沢内に住み着いていたというようなことは聞いた事がない。 源氏方に付いた戸沢氏が沢内北隣雫石にいて、更に山形村山市辺りの城主になってはいる。
 次に名族筑紫の高橋氏についてであるが、ウェブの先生方の寄せられた系図そのままを信ずれば、原田種直、保元平治の乱(1156年、1159年)に活躍、1160年平重盛の養女を室に迎えて、太宰の少弐に任ぜられ、九州平家方の中心勢力となる。 1185年平氏滅亡によりて鎌倉に幽閉、助かるはずかないところを、その弟が源氏の味方をしていたというその為に辛うじて開放され、福岡県早良郡に返されている。 その時何歳の事かは分からない。 それ以前であろう、弟高橋五郎が、今の小郡市近辺において高橋氏を名乗ったと記されている。 しかし源平戦においてその身の上も安かろうはずがない。 その後の行く末、子孫について何の記述もないようである。 また高橋五郎、種泰の名前と平家物語の長綱という侍大将の名前とは一致していない。 高橋氏ばかりでなく、九州大蔵氏系は自分の子の名に種という一字を欠かさない。 平家物語においては侍大将屈辱の記録であるによって、変名を使う配慮が働いたとも推理されよう。
 木曾軍の時は南海西海の兵ども雲霞の如くに馳せ集る。 東の兵は一人も参らず。西は皆参りたり。 と言うから、上記兄種直の平氏との姻戚関係を言うまでもなく、侍大将に九州出身の高橋氏を並べる背景理由は十分にあった。 その後、種直直系と記されている高橋太郎光種系列の高橋氏は、幕府にその都度重きを置かれて活躍し続けてきたようである。
 以上であるが、沢内年代記の年月日背景等歴史の事実に符牒して、思い付きの法螺作り話とは思いがたい。