吉野から甲斐、甲斐から根城

先輩方のウェブ記事から確かめてみた。 ウィキペディア他。
 浄法寺とは、天台宗瀬戸内寂聴師が住職として毎年行う説教でTV報道される有名な寺である。 桂木彫りの観音像がある。 裏山に長慶天皇の墓石があった。 
 長慶天皇。 大正時代に確証された南朝三代目の天皇。 墓地も指定されている。 いくつか墓地の伝説地があるようだが、信用度は薄いようである。 
 根城南部氏が堅固な南朝方で、戦闘派の長慶天皇とは深い交わりがあったものと想像される。 しかし次代の南北合一とは折り合いを付けることがができず、一代限りの致仕の意味で、初めて甲斐から八戸根城の領地に下ったという確かな歴史事実があるようである。
 吉野から甲斐、甲斐から青森という一筋のコースが想定されるという。 普通なら突拍子もない偽物話として片付けられそうなケースであるが、上述の事情と合わせて考えてみると、納得が行かないでもない。 天皇南朝正統の凝り固まりで、決して屈することのない魂の持ち主であったという事が重要なのである。 すでに乏しい味方勢の中、最も頼り甲斐のある南部氏を頼み、次の世の明日あることを願って遥遥八戸まで同道したということは十分にあり得る事である。 奥つ城が浄法寺方角に潜んでいるというのもでたらめでなく、自然な慮りである。
 そういうことで、長慶天皇だけは行き方が知れず、墓所も定かでなかった。 天皇即位の確証も為されずにいたのである。 浄法寺という遠い所におられたからである。 そして二三、根拠もなく墓所伝説地が登場する。
 また信憑性が高くなってきた。 文句なしの国宝まである。 
 義経伝説等と違うのは、他のルートは一切語られていないという事である。 義経伝説はいろいろとあって、コース沿いに点々とまことしやかな遺品、地名などが残されている。 念入りな工作の跡と考えるべきである。 犬吠埼にも伝説があった。 
 伝説工作はみちのく歌枕等数多く、たとえば岩手江釣子村に和泉式部の墓石がある。 このような伝説工作の跡の証拠としてあちこちにあるということがある。 しかし噂を残すばかりでない、かなり物入りな大作業、工事であったようである。 偽物であるにせよ、地域では並ぶもののない、立派な正真正銘の歴史的遺跡である。
 「みちのくは狙われていたか。」 「貴種流離譚?」 そのようでもない。 あぁ、因縁人物登場世界史の巻物でいいのだな。 源氏以来の征夷大将軍であり、西行芭蕉じゃないか。 世の中貴種で溢れている。 と相続者は思案したのであろうと推理する。