共に島津藩発

 近隣において故知れざるケド者評判に堕ちていた事があった。
 手早くルーツを江戸時代にまで遡れば、父親は家康公以来の島津藩抱え郷士陶工、母親は真宗仏画違反撒布城下所払い人の子孫。 共に鹿児島県出身。 
 父親の方は、海の子不倫児壮士団の居残りの者か。 鹿児島において白木野出身の女性を娶る。 天皇陛下に会いたい、アメリカ外交官の亡霊能映画に出演する。 イギリスの薬使い人体一部(香港)食いの野蛮も演ずる。 「傷病棟」遺体を大八車で運搬処理する。 「葬式を上げないでやる」という親族との合意があっての事だったようである。 横流しの舟木とも呼ばれる。 小学に入る子供のカバン代に商品壷二品を質に入れてしまった事があったようだ。 以後非人間として横倒しに搭乗し続ける。 明日のゲーテヘーゲルに渡す船板だ俺。 しみじみと飲む「舟歌」のモデルか。 粘土田捻転つなぎ姿が、ウルトラマンスタイルの原点であろう。 ジャンプ舟木選手もつなぎに身を纏って、殊に見事な水平投身のスタイルを遂げておられる。 (泥人形エンペラーという因縁テーマが日本史に潜んでいたようである。)
 上の家に土下座して上がる。 鑿大工の養子となっていたらしい。 堅い栗の木を刳り貫いて作った梯子段が残っている。 自分の喜びを抑えて、人に役立とういう気持ちしかなかったようである。
 昭和天皇陛下もその謙虚禁欲の農民姿を紹介されて、「自力でがんばろうとしているな」と変わらぬお言葉であったという。
 ボーナスも退職金も年金も知らずして、30代脳卒中後の不自由な体を鞭打つようにして66歳で亡くなっている。
 母親の先祖は盛岡に入ったようである。 盛岡市民との間の子供を産んでから、白木野部落に下ったものと思われる。  盛岡市民との子孫は世界に雄飛して、歴史に名を残す活躍をしておられる。