八幡子殺し事件を解明する

 「直ぐ子をやれ」 と命じられました、という陳述が残されているようである。 これだけでは本当に子をやってしまったのかは定かでない。
 はるばる鹿児島から、親の手から離されて連れられて来た十五六の小娘が、盛岡市中の路傍に捨てられていた。 腹が減って寒くて寂しかったに違いない。
 そこに驚いた事に、なつかしい故郷の名誉、明治維新政府二代目の総理大臣である黒田公がわざわざ盛岡に下り、身近に近寄られたのである。
 感激したものと想像される。
 「直ぐに子供をやるのだぞ」 と否応無しに厳命されたものと思われる。 これはやるしかない、と娘心に決心したのであろう。
 「兵具されました」
 自分の勘違いに気づいた時は、長く歯軋りして悔しがったという。
 以後生きる気もなくしてか、病に臥したようであったらしい。
 その後、「また送る、あのボケが」 と廃棄物みたいに言われながら、ある日沢内通りを連れられて行ったのであろう。
 その子孫が暮らしていた家の周りを生垣のように木瓜の木が取り巻いている。 
 宗教心の強固であることを証した人生であった。