世の中の勉強に、1730年度上の家周辺を紹介してみたい。

 推定であるが、スパイ的に新し家の者が近づいて来た様子が、「アフリカの女王」 発端に描かれているようである。
 新し家中立のいわくであろうか。
 「クッキー」 を差し出されているようだが、警戒してか生齧りしているような印象が写されていると見る。
 初めて見る白皙の女性の方を、「日に照り映える素焼きの女神像を拝んでいるようだ」 と表現したものがメモにあるようである。
 「けだし、かわらけの輝きに過ぎない」 という詩人の言葉があった。
 何かが燃えた後の煙が立っていて、戦い済んで日が暮れた後の朝の事であったろうか。
 「焼くものだ」
 上の家の泥田に座りきれなかったのであろうか、本田をすっかり売り払っていた。
 (この家に腰を着けたことはない、という表現があった。 思い合わせれば、上の家分家の者が寄せられていて、かつての100年間の暮らし振り実態を報告していたのであろう。 「上の家の田畑で暮らしきれなかった」 この間も、私達は高橋でない、という自覚明白な挨拶を届け続ける人がいた。 いわば、借家していたのである。 北山市市役所の本家本元だよ、という一家紹介に預かることでもあったろうか。)
 お寺も回っていなかったのかもしれない。 「まっしぐら」 を相手にして全くの苦戦中であったようだ。 同期生は金力で庄屋になり、藩士にまでなっている世の中に。
 組織の支援が切れることはなかったであろう。
 明治維新直後、火事見舞いにあったのか、小さな木小屋で暮らしていたようだったという伝えがある。 「家も小さなものだったぞ」 (この間、近隣で小さな木造家屋が一軒焼け落ちた火災事故があったが、この場合は、当地江戸時代以来の日本人の家が、とうとう全滅してしまったという象徴的な事件であった。)
 戦後の事、「まっしぐら」 の家の者が火事悪戯を疑われたことがあったようだが、誹謗であった。 もはや当時の歴戦の遺伝子を伝えている者はいない、と考えられるのであるが、元来悪戯で火を付ける不良など部落にいなかったのである。 
 「火武士」、 戦いを称えた言葉であったか。 流れの正しかるべき、悲願あるだけであった。
 鹿児島から連行された者が、この小さな家を見て、こんな家に入りたくない、江戸時代の監獄じゃないか、と嘆いていたという。 「監獄ロック」  家風景であったらしい。
 とにかく鹿児島の者で繋ぐ家になってしまったらしく、その後は、山田三角田を拓いた自作農の家にまで復活していたようである。 「がんじゃ牛復活」 「先進地鹿児島の者であれば保守本流だよ」 と 「まっしぐら」 の者も上の家から嫁までもらうに至っている。
 本来、藤原時代来1000年の歴史ある旧家上の家の者とはどのような顔をしているのであろうか。
 スケッチがあるらしい。
 NHK 宮本武蔵のような丸顔、太眉の者であったと思われる。 背が高いでもなかったから、あぜ道を詰め寄っても、相手は特別に背高の遺伝子、まっさかさまに見下ろされる構えになってしまったらしい。 小柄久賀先輩空手主将の勇姿を思い出す。
 訳あって、この間の上の家の父母も、この地由来の丸顔立眉の特徴を有している方(ほう)であった。
 火武士とは、藤原以来の上の家の者の勤め振りを伝えた言葉なのかもしれない。
 上の家は本来、護摩壇修法を勤務する社家の家柄であった。