日本国への各侵入ルートを復習する。

 先ず盛んに取り上げてきたナホトカ基地について。
 江戸時代からの出発基地であることは間違いない。
 人材募集地域。 ロシア極東の日本人そっくりの民族列も当然頼まれていたと考えられるが、国境を越えた周辺地域からの募集も明瞭になってきた。
 第一に、北海道。 和という名を付ける人もいる。
 次に満州。 この間ならやはり入植者関係者から血脈が流れている可能性がある。 しかしここでは、中国人を輸入するのが主意なのかもしれない。 四庫全書遺伝子の赤ちゃんを大勢各家庭に配給する作戦が展開されていたと見る。 「先ず赤きポストから」 熊本県赤ちゃんポストというのは、この赤ちゃん事件を指差したことのようである。 コピー係り出生以前の仕事である。
 また、戦後に多いのかもしれないが、北朝鮮海岸通り (チャコの海岸通り、とはここのことか)、一部名付けてサンルート計画。
 ある程度の推測であるが、岩手県H市とS村を出生現場としてM市市民を揃える、という北三点作戦というようなものでなかったかと思われる。 北朝鮮地域の人とばかりは限らなかったのかもしれない。
 ロシア国民として、今のアラスカ、アリューシュン列島のエスキモー人も駆り出されていたのかもしれない。 先日亡くなられた南田陽子さんもそのルーツではなかっかという連絡があった。 知事の北原氏もなぜかアリューシャンをルーツとして指差していることがあった。 これは推量ではなく、確かなこととしてのご挨拶であったようだ。 特殊な、徳之島、ロ、アラスカ大三角形計画というものがあったのかもしれない。
 中国、北朝鮮とは違って、ロシア地域では、顔の個性的特徴で見つけられる、という契機があるようだ。 
 チベット、「クチャ」系統の人も、古くから、たとえばH市のお寺に入っていたと想像される。 1900年以前の事であった。 出発基地は分からない。
 K市M地区の人達も、中国の真ん中洛陽から連れられたものと想像しているが、入国は、やはり1900年位に遡る事は確かである。 この時点では、ナホトカ以外の出発基地があったものと考えるのが妥当であろうか。
 香港島が、1840年アヘン戦争で英国の植民地となっている。 香港に大人数チルドレン用の産科、保育施設棟があったよ、と前に聞かされていた。
 最後に、台湾。 1895年から日本の統治に入る。 しかし香港リクルートで、早くから日本侵出に駆り出されていたのかもしれない。 1850年代の赤ちゃんが、たとえば岩手県出身の偉人群となるべく、日本人の赤ちゃんと入れ替えられていた、という推理も成り立つ。 疑わしい点がいくつかある。
 そして訓練を受けて成人した壮士達が、1900年頃にちょうど今のように強盗的に入れ替わり、国家乱入を果たしたのかもしれない。 太平洋戦争遂行用にか、右翼に走ったという情報であった。 明治30年頃のことである。 香港発の企画であったか。