魏志倭人伝のあからさまな矛盾は何を意味しているか。

1. 邪馬台国までの総距離1万2千里から、半島南岸までの距離分7千里を差し引くと、あとわずか5千里、唐津辺上陸までに3千里を費やすとなると、決定的に筑紫の外には出られない計算である。
 南行水行20日及び10日を矛盾なく追加するすることは不可能である。 また、正直に20日も30日も掛けて南に向かって相当する王国地もあるとは思えない。
 唯一可能な解釈は、再び総距離1万2千里を概算表現したものとすることである。 全体的に言えば確かに、概ね南行であり、水行である。
 南行、水行10日陸行1ヶ月を邪馬台国とすれば、水行20日投馬国はどこに至るのであろうか。 もしかしてその記述のままに沖縄を指しているのではなかろうか。 この場合、邪馬台国までの総距離とは無関係ということになるのであろう。
2. この海外的南方角は他にもある。
 王国はセッコウ省海岸地の東方海上にあると記されている。 台湾か沖縄である。
 更にフィリピンを指しているような記述があり、遂には水行1年もの遠地、オーストラリア辺りにまでわざわざ触れて、南方を指差しているのである。
 王国の風俗は、中国最南端の海南島と思われる土地のものと似ているという記述もある。 (中国地名の考証はウェブ記事等を参考にした。)
3. 結論。
 明らかに方角を南に向け、沖縄、海南島、オーストラリアと、down southward, down southward と念じている姿が明白である。
 魏志倭人伝は、疑いのとおり、フー儀式のど真ん中に置かれた文書であったのである。
 これは、生きていればこそ恵まれた世界史初の大発見であった。 大明解であった。 亡くなられた父母達にも是非とも、聞き収めてもらいたい古代の真実である。
4. この時、中国はしかし日本を呪っているのではない。 悪巧みに怒っていたのであろう。
 卑弥呼から送られてくる挨拶を大変に喜び満足し、日本を慈しんで銅鏡百枚も贈る皇帝の心持が、儀式最後の締めくくりの真言のように、しっかりと記される。 
 倭人の描写も客観的である。
5. 邪馬台国の資料としてはどう読むべきか。
 南方角は工作的ペテンと取るべきで、参考にすべきではない。
 東南は東北であろう。
 この90度の変更を、南行の表示にも加えれば、すべて東行となる。 
 九州に上陸した地点で、国の形からのアイディアであろうか、直角に東を南と書き違えて、魏志倭人企画に当てはめようとしたものと推理されよう。
 東行20日吉備、東行10日隅之江、邪馬台国西方の国々を訪れて陸行1ヶ月、大和の国の邪馬台国に到着した、というのが真実なのかもしれない。
 皇帝の贈り物も多大であり、すでに北九州も支配下に治めていた一大王国への返礼という重さが感じられるのである。
 そして先日遂に、大和の王墓にこそその銅鏡が数多く見つけられる、という重大発掘ニュースがあった。
6. 記紀の時代には、この頃の政治的軍事的事実と地名の由来、個人名等が殆ど忘れられていて、かなり創作的な建国神話が押し付けられているものと想像される。