くれるったらありゃしない。 ないったらない。 やってくれるじゃないか。 

 世界計画反対の真実は、倭が一番では許しがたい、という事に尽きると言えようか。
 大和の国建国神話を、そのような古代中国側の意向を、重く招き入れた構え、名前のものとして読解することが可能である。
 以下その推理の内のいくつか。
 一等高峰韓国岳を背景とする高千穂の峰に天孫降臨の地を置く。
 能曲で中国の皇帝と婚姻の間柄にあると語られている中臣氏一脈が、皇子擁立の功績によって大和王朝古代史に登場し、不比等の名を称する。
 等しく比べらるべからず。
 結局藤のように一番の大木たるべし。 天津児の屋根たるべく、衣笠たるべく。
 春日山とは、御蓋山の転であるという説明がある。
 大和は後手のものである。
 それを和邇と呼ぶ。
 爾とは四角い判子のことであり、判子を捺した時のその擬声語音は、副次的である、という意味の関連で、二の発音ともなっている。
 以前に韓の国から王子が二人大和の国を訪れたことがあったと記されている。 和が爾のものであるという和邇が転じて、王仁となり、王子二人派遣のアイディアに発展するという筋道が成立する。 兎道の難儀というものが実際にあって、それが因幡の兎伝説として伝えられているのであろうか。 藤原氏の子孫は後に宇治の地に平等院を建立することになる。 また行路の難儀といえば、熊野の奥駆け路であろう。 所々に、いささか奇異な感がする若王子の名の神社が建てられているというのにも、おそらくは、その兎道の王子の難儀を忍ぶが為という秘儀のようなものが潜んでいるのかもしれない。
 舌先三寸上で、興の字によって呪術されている三国の配置を探ってみれば、韓の国はフンで衣笠の位置にあり、中国はシンで広々と舌の上の面積にあり、日本はコウで海南島チベットに置かれている。
 中国で二をアールと呼ぶのにも、何かのまじないが潜んでいるのかもしれない。
 大和盆地内における初期の頃の王朝の所在地も、必要理由定かでもなく、殊更東南の隅にばかり片寄っている。 中央でない、隈の、という言葉に引き寄せられていたとも勘繰られる。
 結局、中国側の思惑を重く招いて始められた大和国家の建設であり、神話の創作があったということは、他の多くの証拠もあって、認めざるを得ないことのようである。
 以上、かつて中国は東海の小島国を雪山会の国にすることに反対したことがあり、企みを以って介入した疑惑もあるという、メモ的な書き込みである。
 これは、決して中国の伝統文化が盗みを働かれたということではない。 組織設計活動への協力契約があり、その組織活動に対する働きかけがあったようだという内部事情の話である。
 また、日本の方では、大国を尊敬して謙虚に学ぶ姿勢を通してきたという歴史自覚しかなかったのである。