代々木村は中国から移入された六家系だけの集落ではなかった。

 また横浜町には、上の家薩摩仕置きとの関わりで、徳川慶喜公御手配の京都武士団が移住していた。
 薩摩仕置きと共に大勢の鹿児島人が横浜町に入っていたはずである。
 中国発六家系は噂を立てられ易い経歴にあって、実際薩摩展開側から追い込まれるような噂を立てられることもあったようだ。
 その時に、京都武士団が自らの責任負担と共に、大胆に中国発六家系一本勝負の企画を選択したのだという。
 その通りに、見事に宮原家ばかりが繁栄する世の中となっていて、自らその子孫繁栄振りを口にしておられたそうである。
 他の家の人達は、いなくなったり、極めて腰が曲がって背が低くなったり、口の廻りが悪くなったり、差別されたり、と恥じらいもなく、歴然とした運動の効果を上げていた。
 地下は目に見えずも、こうやって人を選択しているものだという分かり易い例である。
 全国どこにでも似たようなことはあろう。