今、佐藤氏と田中氏の、あの青光りするような、整髪上がりスタイルというものの意味を読み取らなければならない。

 思えば久保宏氏等にも、殊更な剃りあげヘアファッションの意志を感じさせられていたものである。 
 田中氏が西方を指呼して、私はその由来で並ぼうとしているのだ。 そっちはそのラインでは高くて無理なのかなぁ、とこぼしておられたという、その意味を田中氏自身の出自の問題としてしか聞き取ることができないでいた。 
 白山の山腹あたりに留まっていたのであるが、いま思えばその指さす所は京都の二条城であったのである。
 この整髪上がりスタイルというものは、田中氏が一人で始めたものではない。 師である佐藤氏の志を受け継いだだけなのである。 将軍様の御決議というものに逆らうことは、何が何でも失礼である、という決まった態度があり得る。 
 総理大臣達には少しやられた、という戦後のエリート達の感想があったそうであるが、このエリート達に、食品差別、教育差別、人事好き放題のエゴ社会を自ら反省するという、高い志があるとも思われない。 仲間割れでもしているような地域にルーツを持つ人が多いのかもしれない。
 いずれのルーツにしても確かな記録のある日本人である、という天皇家のご認定もあったのであるが、そのような肯定的な情報が、地域人日本の思惑の中で、なかなか広く伝えられていなかったのである。