上の家と武士家系との関わり。

 封建的な問題意識であるが、組織のこだわりであるから仕方がない。
 上の家は紛れもなく藤原金の道、国と国を結ぶ街道沿いの神社旧家の勤務中に見つけられた。 伝聞に拠らずに、藤原時代以来の古さが客観的に確認される家は町内でも他にはないのかもしれない。 古きには、一帯の先輩後輩達と 「竹馬の友」 の交わりを持っていたことは想像されることであるが、海道側で発展していた和賀氏家臣家系とは無関係である。
 スタートから海外人をこき混ぜる作戦であったが、知り得る限りでは各藩の城に近い海岸が上陸地であったようだ。
 上陸者を迎え上の家に置いたのは南部藩の仕事である。 その際柿の木を植樹したようである。 食べ物が寂しかったのであろう。 その実を村の者が盗むというので、村人を嘲るような小話が口伝されていたようである。
 予定通りかどうか、終い湯は国民株でということで、島津藩の活躍と共に薩摩の人間で明日を頼もうという段に至り、京都二条城での大名会議が成立する。 テーマは始末、千年の事であった。 新選組誠とは、大の男どもが雁首揃えたのは契約相手の真摯さを確認信頼したからである、という重大事実を世に掲げ示しものと想像される。
 人的物的な馬鹿にならないいろいろのご支援があった。 組織一流の不倫児企画にも参加して、支援背景となるよう惜しげもなく無慮数子孫を儲け組織に預ける。
 取り囲んで、上の家の者を失礼な者として処罰し、乗っ取ろうとせんが為ではなかった。
 一つだけ重大な疑惑があった。 ハンコウが上の家の弟の殺害を命じたという、定かには何時誰とも分かぬ伝え話である。 とにかくハンコウという言葉が出て、その弟の姉の夫にその命令が伝えられたということまでは事実であるようだ。 藩士家系の夫はもはや無判断に従うばかりであったようだ。
 年代確認してみると、弟が亡くなったのは1979年、まだ19歳であった。 疑うも失礼な事であるが、当主の方はその時20歳。 未だ東京に暮らしておられたという。 前代も東京暮らしのまま生涯を終えられている。 故郷に帰られたというのは、明治維新後1981年になって初めてであったのかもしれない。 武将華族というものは揃って東京都に住まいを構えているものだよ、というわざわざのご挨拶があった。 何かを聞かれていて、ピンと来ないでいたのかもしれない。
 部分的に和賀氏家臣家系の人の御登場を願う、という伝統のようなものがあった。 その伝であったと思われる。
 ついでに前代の方の奥方は山間地出身の施設子孫系統の人ではなかったか。 日高見市にかつて木曜会というものがあったと言われている。 ヴイクトリーというレストランで組織探索の会を開いていたという。 山間地出身でもそのラインはヴィクトリア女王の関与に由るよるものであったらしく、使命により大胆に上の家に最接近して住まわれていた。 しかしスイマーと渾名された上の家の兄は勘が悪かったらしく、使命によって呼ばれている相手先に気付かずに39歳で亡くなる。 青年の不始末、不倫地獄に俺を追い落とそうとしているようだ、と自覚正しい言葉を漏らしていたという。 その為であろうか、このヴィクトリーラインは自棄を起こしたように、日本の高武士家系を狙って婚姻を遂げようとする。 徳川、佐竹、上杉、・・・ これを名付けて上杉作戦という。 上を過ぎてしまおうというのであろう。 組織の大好きな語呂転がし作戦である。 しかし過ぎてしまうことはできない勘定であったのか。 ところでレストランヴィクトリーでの探索会というのは、この地下組織発掘記事の先行者とも呼ぶべきもので、すでに40年も50年も前の事となろうか。 日本国一斉に朝の学校コーラスが貧血気味というのは、この出っ歯活動の祟りのせいではないかという疑いがあるようである。 そのせいでこの間は、いくらか組織解明開示の書籍活動を応援してくれ、という依頼が関係者子孫の方に寄せられていたのかもしれない。
 しかし真に、このウェブ活動は八年前の八月十六日に、前後にヴィクトリーラインの関係者二人を置いてスタートしたものであった。 計画され予定されていたことであった。
 ついでにまた失礼なことであるが、やはり上杉方面のM様関係について。 関係者影響下にあって、会津にいた上の家の姉夫婦がやや苦戦中であったと伝えられている。 どうしてか、三蔵法師の西目さん、トラック野郎の八代さんと同様、街道無敵因縁の娘さんを抱えてしまっていたようである。 何の無敵かというと、無比の学力キャリアということであろうか。 上杉というと下剋上であるが、上の家の兄弟姉は、本来の上の家の者をひっくり返して食べている奴等、という宣伝がある方面に流れていて、それが響いていたようである。 しかし結果的には弟は19歳でとっくに亡くなっていたのであり、姉は脳外科後の引退者、父母も年金生活の一日も知らずにその病苦の人生を片付けている。 本当なら、上の家は注目の家で以前から置かれていた家であった、あんたなら間に合うか、といった穏やかな間合いの仲であったと思われるのであるが、組織は不面目なばかりで無茶な迷惑を押し付けることがある。 (ひとみを閉じて、という歌の文句があるが、これはもはや結婚しようよという間柄において、薩摩筋の者を塞いでしまおうという持ちかけであったと思われる。 ひとみさんは、歌の当時、これから勤めに出て男性に出会い結婚して出産し、子育てするという発展の前途を有していたのである。 薩摩の山本さんはテレビタレントのように黒目が大きな人であったようだ。 これがひとみという名前の発端なのかもしれない。)
 結局M様は他のご家族と一緒にこの公文活動を認め、応援することに至ったようである。  言うまでもなく、ご本人が近くに寄られるなどといったことはあるまい。 画王、画王、とにかく活字にしなさい、といったご発言ぐらいのものであったと思われる。 天下の男優、M氏を使われたものであった。 (もしかして画王という名も、絵画を見ては鼻に付くようであったという目撃譚に因るものであったのか。)
 なお謙信上杉氏は本来の他の上杉氏とは共存的であり、流れを後に返上してもいる。 またインターネットの記事によると、長尾氏自体遡れば上杉氏の親類仲間であったという。