沢内村に、代々、刀差し (給人) 藩士の位に与る者を出す一族がいた。

 仮に遠藤氏と名付けよう。
 地域史に拠るだけであるが、1730年頃に酒屋婿養子として秋田方面から入村する。
 酒屋がどのような家であったか、また秋田のどの家から入ったかは不記載である。 集落内では語り伝えられている先祖話があるのかどうか、歩いて調べるのでなければ分からない。
 田披き手伝いの功績大によって、一代の内に藩士身分に抱えられている。 (後に金子特高生たる者の宿縁的行動を請求されることがあったようだ。)
 もはや8,9年に及ぶ地下組織究明の進展により定かと思われ事を以下に記したい。
 遠藤氏子孫、いわゆる橋の下子孫系列が多数いて日本国のエリート層の一部を構成している。
 国土作戦において参謀本部相手に任ぜられる。 何と言っても地域発施設子孫体系内においては、藩士という一番の身分高先祖である。 活動のすべてのキャップであるべく頼まれる人達であったと思われる。 今回の上陸作戦においても、総攬者の位置においてなかなかのリーダーシップを果たしてきたものと想像される。
 ルーツの推理。 自分達は普通、という言葉がある。 教会職員の連れ立ちとは違って、一般船員上がりだという意味であろうか。 船員が町で喫茶中に駆り立てられた、というぐらいの縁なのであろうか、組織からの紹介もあまりない方である。
 ギリシャの偉人に顔の輪郭が似ている。 渡来人一般人上がりということか。 風と共に去りぬのように、どこかからとも知れぬ風来坊的登場のいわくを背負っているようである。 西洋人側の由来はここまでか。
 アジア人側の故郷は満州沿海州辺りの湖岸の地ではなかったか。 連れの故郷の推理からも北方の出自であることは間違いないと思われる。 上の家に座った人達のアジア人側ルーツは、やはりサハ人ではなかったかと今また、骨格的視角から思い直すことがあった。 輪ゴム遊びが当地では流行ったものである。 上の家の者は若過ぎて輪ゴム越えを果たせなかったのである。 遠藤氏ルーツもひょっとしたら、イルクーツクかチタかネルチンスクかの一村の仲間であったということなのかもしれない。 長谷川一夫氏も見知りであったという。 遠藤氏の先祖はバイカル湖畔の若者であった。 同じサハ人仲間であったか。 ブリヤート人に似ていない。 ブリヤート人といったら西の家周辺の人達のルーツであろう。 更に加治屋家のルーツもサハ人ヤクート人のようである。 下の家も新家のてんぼう父さんも同じ。 また、五郎八家はブリヤート人系と見ることができる。
 本内集落子孫系列を眺めて、そっくりロシアのイルクーツク顔でそろっているのを見て大笑いしていた人がいたという。 「大観命題」 の方の、「見抜き」 先行とでもいうような契約があったらしい。
 他の沢内連中のルーツ聞き書きを参考までに記してみると、先述したように教会の職員であったようだ。 金子横領の疑いで堂内横転事故の末のリクルートであったと伝えられている。 そろって 「100パーセント給付」 の、金高出世未来が予定されていたのである。 ゴミ漁りまでし飢えを凌いだと伝えられている、仙台の伯母家族達の飢餓時代の原因となったと思われる詐取事件疑惑があった。 貧乏人の財産、知れた金額であるけれど何人かの東大進学の資金にはなったはずである。 しかし、詐取犯罪の一味に加わった人達ではあるまい。 現英王室に親しい先祖にも繋がっていると聞かされることがあった。 
 上の家の場合は寝過ごし脱走兵。 その後火事騒ぎの時に逃亡して一時牧夫をしていたという。 最後のサムライに待たれていたという、ナポレオンとワシントンとの親戚関係はどこで生じたことなのか。 アジア人としては宗教儀式を担当していた人ではなかったか。 修験道儀式の家に入ったわけであるが、寺みたいにお経を上げるようであったので、それじゃ寺だ、と本来の子孫達に不満がられていたと伝えられている。
 藩で抱えた同様の先輩例は近隣の市にもあり、やはり水田開拓の功績を上げている。
 薩摩処分の上の家ということで、大名御一同との紳士契約と協力を得て、上の家の先人兄姉妹達は他地域に出ることとなる。 これに怒ったという自覚があったかは知れないが、この集落に同窓生であった藩士遠藤氏の流れの者が金子頂戴に立ち入ることになる。 「金子頂戴」 の特高生の応援進学金が欲しいという無体である。 
 現在形において相手は南部藩士の子孫、沢内村正門の苗字の者。 素直に応じたようである。 後で返してもらえるものと思ったのでもあろう。 マタタビ者そっくりに、腰を屈めての頂戴挨拶であったという。 フーテンの寅さんみたいなものであったろうか。 
 こちらこそは、京都二条城の紫モクレン南天を拝領している公儀認定の者、後の世の保守本流の元祖たる日本人真実の者なのであるから、頭を高くして断ってもよかったのであろうが、この場合は負け戦、武士子孫の者を応援しようという腹積もりであったのかもしれない。 わざわざ登記所にまで出向いて借用登記して用意した借金の額を、紙一枚で渡している。 下の家では呆れてしまって、馬鹿ぁと叫んでいたという。 大層な額の用意であったようだ。 アハがらオラデギネェ者だと言っているような家だ、という遠藤苗字の者の印象談が伝えられている。 これによって上の家は、年から年中金のないピーピー家だ、と周りの者から言われることになる。 同窓生を苛めて追い出した集落ということで言うのか、この金子頂戴立ち入りに成功した遠藤苗字の者は、自らを百獣の王と号したという。 
 アハであるが、オラデギネェ一番のような人は、浅黒いようで背の低い人であった。 「一番いい」 子種といえば、ノモ氏や今野洋子さんに似た人がいた。 つまり背が高い。 このようなことは、時代の差があることであるが、本内部落内的な工作の臭いのすることである。 湯田町一番のピンとキリ。 ピンキーとキラーズ
 山本譲二たるべき者が、どうしてこのような登記借金するほどの通行人役にまで落ちてしまったのか。 すべては坂本冬美美人を振ってしまったからではなかろうか。 もはや私歌麿といってまで出て来た者を袖にしてしまった。 この時点で組織は、理想の里見浩太郎案を泣きの涙で放棄してしまったようだ。 山本の言い分も確かなことであった。 唐子の妻と輪島の夢見せて、酒五ん合だ。