岩沢井澤家の疑惑他 写真集 ノペル5月

 地震ではなく、積雪で潰れたと思われるサヤ堂屋根(平成14年築)。 豪雪地帯(湯田町)であるから、大地震発生時の眼にしたことのない積雪状態を前提条件にした、一つの震災例なのかもしれない。
 建立者の初志は横死者の霊を弔うことであった。 左に遭難者供養の石碑。 日蓮宗僧侶の方に二度足を運んでいただきささやかな葬式を営んだ跡である。 上の家に北帰行する為の金華山儀式があったことが仮想されるのである。
 お堂内に祀られていた御本尊と位牌龕他の仏具。 平成17年に亡くなった母の回復を祈る為の御本尊のご提供であったようだ。 
 御本尊はこの厨子の中に掛けられていた。 
 いわばフーテンの寅さんの映画がある限り続けられてきた天皇家の上の家応援の証。(信徒先達のFさんからの贈り物であった。) 「信心強盛にして」 宗教家再現専門の応援であったようだ。 金と銀のお印があざといくらいである。 危うく持ち出してきた仏具の一つである。 
 (上から二段目の写真の小さなチンのわざとらしく大きな座布団も、もはや公文活動の発展あるべく、届けられたものである可能性が高い。 しかし、贈与品ではなく、自費で買い求めたものである。)
  相当数の取り残しがあると思われるが、土中に埋もれていた古墓石を掘り出して、旧墓地の背後の丘の上に上げていた。 更に基壇設置工事を頼んでいたその仕上がりを確認した日の写真である。 合意の上で近隣集落四遇に分散して祀られているものもあると聞かされている。
 
 元和寛政までの年号彫刻は確認できているが、室町時代時代以前に遡る旧家であることは確かである。 古代金の道以来の藤原仙人神社に直結した里宮の家であった。
  
 裏山の形も小型のテーブルマウンテンのようである。
  旧道はすべてこの湖の向こう側を通っていた。 金の道も、源氏八幡舘の跡も、鎌倉権五郎眼洗いのすずの跡も。 
 
  向かいの山羽山の麓に和賀町側の里宮があって、その江戸時代の建物が国指定の文化財となっている。 室町時代には、有名な新渡戸稲造の先祖の母親の実家であったと伝えられている。 表示されている通りの江戸時代の活躍よりも、室町時代以前の方がルートに政治的な重要性もあって、広域に中枢の家となっていたのではないかと推理される。 工作的に身を落とした姿で今の世に紹介されているのではないかという疑いがある。 「臭い出し成功。」 と取り調べの者の評価の声が上がっていたのを聞いたことがある、という現場報告があったので間違いないようである。
  帰り道は昼前からのあいにくの空模様となったが、朝の往路は、橋を渡るごとに車から降りて歩きたくなるような渓谷の萌黄色模様であった。