上の家とはいかなる家格の家であったか。

(インターネット案内ページの写真を利用させていただく。) 何故この丘の上に、このように立派な国民宿舎が人の眼を引き付けるように立っているのか。 その他の謎が次々と明かされる。
 分かりやいすことから言えば、沢内通りの外れの地、袖呼ばわりされるような寂しい一谷筋の山家に過ぎない、というのでは誤りであり、今頃の若い人達の一般常識は正されるべきである。
 かつて上の家は沢内通り全体の正面玄関であったのである。 仙台に出るにも、江戸表に出るにも、伊勢京都に脚を伸ばすにも、必ず礼拝したであろう古神社担当の旧家であった。 国越えの国道であるばかりでなく、藤原時代からの金の道でもあり、銅の道でもあった。
 最初の出会いのメモのどのような解釈によっても、上の家が何かの悪評判を背負っている家であることはない、と組織からの最終的な保証通知を受け取っている。
 関越え一番の丘の上の家、ということで平泉の国民宿舎が当初の期待値の象徴として、人の眼を集めるように聳えているのではなかろうか。 しかしもっと近付いて見ると、肢道の農家であった、というので近くに新たに館ファームが設計されたものと推理することができる。
 大阪の歌舞伎は片岡仁左衛門の名を写し、東京の歌舞伎は新太郎の丸頭と丸顔で上の家の顔形を写している、と言ってもよかろうか。
 こういうことは、幕府の二条城始末会議の背景あって納得できることなのであろう。