みちのくの K 市に片岡氏の先祖グループが入った時にはすでに、その地の城下町地域に先輩グループ輪中氏が入っていて、

何の為にまたそこの沼地のような所の岡の上に住居を構えられるのかと尋ねられたのだそうである。
 先輩グループは現在当市の苗字番付の 30番目かのランクに位して健在である。
 しかし後発の片岡氏こそ大発展した市民グループであった。 かつての城下町は江戸時代には廃され、氏グループが本拠とする地域近辺の町割りが、現在の K 市の原形となる。 片岡氏はまた他の市民グループと同様大勢の私生児子孫をも抱えている。
 隣村にも同じ日本史制作隊の由来を持つ松枝氏がいて、二つの近接した村の人口において、3番目と 10番目ぐらいの大苗字一族としての広がりを有している。 片岡氏の場合と異なって輪中氏共に地味な発展ぶりである。 地下魔術によって自分達こそ偉くなる、という仕掛けではなかったということが覗われるのである。
 石田光成を支え上げたと伝えられている制作隊一族も、京都北方の地で自らは名を出さずに暮らしていたようだという情報を聞かされたことがある。 
 彼らは鎌倉時代元寇の蒙古軍兵士達ではなかったろうか。 風貌がそれぞれに独特なものがある。 輪中氏なら、一際大きないかつい顔が特徴である。