薩摩藩士「じん清」とその関連   − 精一は加山祐三と実兄弟であったか。

 もしかしたら漢方に関わっていたのかとも疑われるが、やはり、大寺で清掃なども担当していた作務衣の者ではなかったかというルーツ調査である。
 三日月形の顔が特徴的で、その特徴の故に連れられた人と思われる。 ヤクート人の加治屋系や朱氏と通ずる所があって紛らわしい。
 藩主側では最後まで藩士として抱えたがっていたようである。 組織指導の地下活動によって疑惑の人となっていたのである。 それなら、とわざわざ大きな商館を屋敷の真ん前に建てて、専門にこの商家を相手にしたまえ、という物入りなご配慮まで下されている。 生真面目な人柄が好まれていたのか。
 小倉慶の歌全てに美しく歌われている。 シクラメンの香りとは「じん清」の自ずからなる心様の事であろう。 自分を過去呼ばわりする潔い覚悟の言葉が伝えられている。 
 その腹は十分に分かる、後は返らなければその立場で立派とも言える、という武将連の評価があるという。 昔話である。
 しかし、実は大変な隠し子孫持ちであった。 横綱もいれば、金メダルもいる、周辺の旧家とも縁者になり、更に多くの子孫スタート株ともなる。 橋由紀夫さんもその伝と思われる。
 ところで、表の者がなっていない、と言われてきた上の家の精一であるが、顔の反りの特徴からは決定的には見定めがたく思われる。 加山祐三氏が同じ父親の子ではないかと推定されているのであるが、やはり反りの特徴ではじん清ルートを特定し難い。 顎に向かって細面気味であることには違いない。 加山氏は父親探しでは暗夜行路であったが、最後は母親縁(公家と鹿児島藩士)で軽々と浮かばれる、というのが名画「赤ひげ」のサブテーマの結論であった。 その父親というのは組織管理の組織で生まれ育てられた一般の私生児子孫ではなく、野で生まれ育った者であるから、そのルーツは同じように組織保育室が保証しているものではない。 ある種フーテンの寅さんさくらさんと同じ上がり方の者ということになるのかもしれない。 彼の上原氏津川氏とも同然の「ヤマニ」系であったのかもしれない。
 場合によっては湯田町子孫と縁があって映画に出たりしておられるのであるが、精一の場合は郷士陶工団内で新たな親を持ったことは確認される。 上記「ヤマニ」系というものも疑ってみると、江戸時代白木埜発の子孫でもあるという真実に当たる場合なのかもしれない。 そのようなことによって、あるいは竹下さんや西郷さんやキッコさんや指物師の増田氏やノーベル物理学賞受賞者等が白木埜善右の子孫で揃っていることになり、精一もまた同様に白木埜善右の一人の子孫である、という初手からのヒントが了解され得るのである。
 思えば、白木埜善右の家に向かってブルドーザーする姿を何度も電信されることがあったのであるが、それはかつての知事さんからのメッセージであったのであろう。 知事さんは指物師の子孫であり、精一の母親も指物師の家の娘ではなかったか。 「幼児がやっと母親の家に入ったな」 「草原で生きる命の力を見せるのなんだ」 「遠くで眺めているしかないの」 「ガッチャマン」(これは筆記者のことか)