遥かな藤原秀衡と菅江真澄あるいは柳田國男の顔に見られる共通性から始まって、以下の事が推理される。

 藤原秀衡の顔に現在のみちのく人の顔の特徴を見出だすということはひじょうにあり得ることである。 ただし秀衡の似顔絵はあまりに古い。 個性的な表現の絵であるとは思われる。
 後二者は共にみちのくを旅歩く紀行著作家である。 菅江は本名白井秀夫、三河の人(1754 - 1829)。 柳田は兵庫県生まれ。 共にみちのくとの祖縁を語っていない。
 みちのくの地を網羅する程に歩き回った二人ではあるが、偶然とは思えない事に澤内通りはパスしている。 澤内は三千石の隠れ里として有名であり、民俗学的記録家のふたりにとっては極めて興味深い見逃すことのできない土地ではなかったろうか。 粗読みで確認し得る限り、一言も澤内には触れていない。 意志的にも感ぜられる振る舞いである。 ルーツ上の疑いが掛かってくるところである。
 そう仮定するなら、柳田の場合、「似相」グループに属している。 日露戦争白樺派の登場人物は主に「似相」子孫達である。 ヨーロッパ、ヨーロッパと親から聞かされたようなルーツ言葉を聞かされることがあった。 パッパッとも言う。 隣のパパイヤとも何かの関係があるのかもしれない。
 推理であるが、似相とは二曹下士官のことでドイツ軍人の私生児であることを意味しているのではなかろうか。 全員このトイツ人一人を父親としていることが考えられる。 母親が埜の人。 江戸時代は埜の人一辺倒の運動であったからこれは堅い事と思われる。
 以上からも、地下組織の、余す所のない歴史の独裁的権力者ぶりがうかがえるようである。
 小林一茶樋口一葉も、埜の人グルーブ内の偉人であることが確認されているようである。