泥棒? 天下に名高い上の家の真実

1. 知り得る限りにおいて、上の家の人間は正直者でありだまされる事はあっても、人をだますような小ずる賢い者であったことはない。
 逆に、常に詐欺詐取の被害者である、という悲しい宿命を押し付けられていたようである。
2. 出版物上の上の家の最古の記録によると、1600年代に、小豆等畑物を盗みに倉に入った泥棒を追いかけて自ら縄に掛け越中畑の番所に突き出している。
 盗取被害記録の最初であるが、恐らくはこれが後の世の子孫達の西部警察キャスティングの因となっているではなかろうか。 
 そして、上の家の者の最後の仕事は私立探偵、あるいは精々捕物帳事務員である。
3. 上の家の者は泥棒を捕まえたことはあるが、盗みを働いて暮らしたことはない。
 1700年代に、上の家に井藤氏の先祖が入る。 井藤氏と加藤氏と石河氏は同期である。 似たような事は他藩においても行われている。
 井藤氏系の子孫は精一の母親の代まで途切れることなく上の家の世襲人であった。
 この300年間という長い年月に、上の家が泥棒家であったことがあったであろうか。 井藤氏の先祖は、先代のように泥棒を捕まえたことはなかったが、泥棒を働くようなちょこまかとしたペテン人ではあり得ない。
4. しかし幕末期、家族の病気早死にが続き、遂には俺達に明日はないのかという窮境が訪れる。
 日すて生活人のように田圃を上の家の旧分家に売り払って暮らす他なくなる。 幼い子供と祖母が残されるような事態に陥ったのではなかろうか。 おーいお茶、と贅沢生活をして威張っていたのでもなかろうが、好みのお茶に何かが入っていたのではなかろうかと推理する。
5. 幼子は成人すると江守徹氏のようなお兄さんとなって、妹三人と共に隣町日高見と水沢、上山の三カ所に移住させられられる。
 黒沢尻では男山財団を背景に押しも押されぬ旧家となって、尊敬を措く人は一人もいない。 岩手県でも珍しい恩賜病院を早々とこの地に建てたのも井藤氏であり、最も市民に人気のあった市長さんも井藤氏であった。
 組織子孫も多く、あるいは日高見市民先輩団の第一ではなかろうか。
6. このような温厚な先生方を眼にして、上の家の江戸時代が人の物を盗み取るような経歴であったとは信じ難いことであろう。
 本内部落の悪評のもとは上の家にはなかった。
7. 上の家の領地は広大で、栗畑もあれば、小豆畑、大根畑、芋畑もあって、体が動く限り貧窮の底に墜ちる環境ではなかった。
 その芋と栗を毎日食べて私も育ってきたのである。 兎もいたであろうし、アケビや山ブドウなど背負いきれない程の山果が裏山に垂れ下がっていたはずである。
8. 我が故郷他に無し、と咆哮した江守徹氏ではあったが、最後に一人?、仕舞い湯とは恐ろしいと、遂には母と弟を残して本内部落を出ることに合意する。
9. 通して300年も暮らしていた本内部落生活の結果として、部落の周囲に何軒かの分家と親戚の家が散開していた。
 上の家分家先輩団の誰かが自分の先祖の家はどこであろうと、本内部落内を捜し歩いても見つからない仕掛けであった。 江戸時代中の展開であるから、忘れられている場合もあると思われる。 山中ではあるが明治維新後からこそ忙しくなる出入りの地域であった。
10. 皆さんが目にしてきた上の家の人間とは、ほとんどが井藤氏系列の子孫であり、後は拙くもはしたない九州人子孫の精一レンの家族ばかりである。
 本内地のロクブ呼ばわりを賜るべき人間は、以上の上の家には論理的にも存在していない。

 次回は、井藤氏以前の上の家の人間について推理してみよう。