六部問題 一


旅のものと言えば、順番もないですが、座頭、虚無僧、雲水、六部、ほいと非人などと並びます。
江戸時代は管理社会で、官許がなければ自由に乞食旅行もできませんでした。
今並べた旅の者たちも必ず全国統一規格のファッションに身を包んでいます。
最下位の非人でさえ、枠からはみ出ては、歩くことも筵を広げることもできなかったのです。
五人組社会のスクラムでかっちりと固められた社会で、農民の場合職場放棄も逃散として罰せられ、非人に落とされる理由となりました。
大陸と違って江戸時代に入ると盗賊団というものは聞かなくなっているようです。


徳川家の先祖は僧の者として歩いていたことがあったそうですが、家康の戦後の社会の管理の仕方に、放浪者への特別の視線を感じます。
勝海舟の先祖は盲目ながら、少年の身で越の国から江戸にまでたどり着き、融資業で大成功を遂げた人でした。
塙保己一は、盲目の先人として、東京に来たヘレンケラーが、その遺品の机を懐かしげにさすっていたそうです。
映画でも座頭市は大活躍しています。
特に盲目者に厚いことは世界でも稀なことではないでしょうか。


虚無僧は牢人の失対事業で、鎌倉に一寺あった普化宗という宗派を取り上げたものです。
やはりファッションが独特です。明治初期まで続いていたようです。


さて六部ですが、これも古く、六十六カ国回国の僧といって、日本国中一国一所に法華経を一部づつ埋納して歩いたものだそうです。
かなり古く今ではすっかり忘れ去られていて、その歩き姿を想像してみることはあまり遠くてできません。
花巻市の高松という古寺跡のある小山の上から、経を納めていたと思われる四耳壺と三筋壺のペアが発掘されています。
なかなかすっきりとして決まったペアで、他でも出会うことがあります。みちのく以外にもあるのかどうかは分かりません。


ところで、この高松地区にはまた胡四王山というみちのく進軍最古の跡と思われる神社の丘があり、そこに宮沢賢治記念館が建てられています。
胡四王すなわち越王、すなわち阿倍比羅夫ということです。奥羽山脈の反対側対称的な位置、横手市近辺にも同じ胡四王神社があります。
すぐ近くに新渡戸氏記念館もあります。新渡戸氏は窮迫してここで和賀氏に身を寄せ、時に敵である南部氏という第二の君主に預かります。
その際、残党狩りを止め、和賀氏という恩人の命脈を救うという約束を取り付けていたそうです。
一大事の身の振り方に新渡戸氏の人間性が偲ばれる場所でもあります。


奥羽山脈で二番目に神々しく見える山が経塚山といって、山頂がその四耳壺をちょうどひっくり返したような形をしています。
高松やこのような山が六十六カ国の跡なのでしょうが、今その由来や時代を正しく教えてくれる人はいません。
一定期間の事績であって、その後長く途絶えていたのでしょう。
平泉にもいくつかの経塚山があります。
同時期同精神のものでしょうが、藤原氏独自の宗教活動の跡と考えていいでしょう。
宮沢賢治も経埋るべき山として近辺の山々を指定していますが、同じく、法華経宇宙論的な護持運動への共鳴からでしょう。


それを復活して独特な形で利用したのが、江戸時代の六部といわれるものです。


法華経二十六巻を六十六部も書き写すのも大変ですが、それを笈に入れて担ぎ歩くのも重かったでしょう。その笈の長さがそのまま保存されて、江戸時代の六部のファッションの特徴を成しています。
なかには一巻六十六部とか木像が入っていたそうですが、みっしりと二十六巻で詰められていることはなかったでしょう。
まじめに六十六箇所を廻って帰ってくる巡礼供養のパターンもあったようです。


岩手県南の庄屋の生まれから伊達藩の儒教教師となった芦東山という人がいます。
教室では武士も農民も同じに扱ったために非常に驚かれて長く流されましたか゛、東洋で唯一と言われる刑罰の総合本を完成しました。
刑罰のない社会を理想として、無刑録という題をつけたそうです。
明治維新期には大いに参考にされたようです。
その生家の庭先に、六部回国供養の記念の碑が堂々と建てられていました。
近くの神社にもまた一段と大きな六部回国記念の石碑が立ち並んでいました。
全国でも珍しいものではないでしょうか。


福岡市蒲沢町に六部行脚して貯めた金で、水田を切り拓いた人がいます。
昔の全国偉人全集本に、この地区出身の全国的レベルの偉人が取り上げられていましたが、全国でも珍しいくらい高レベルの隣接地域にはさまれて、誰があろう、初代二所の関親方と、この蒲沢村の水田を拓いた六部行の徳人が堂々と紹介されていました。
近年、あの有名な新渡戸稲造の祖父が鳥も飛ばなかったといわれる十和田の原野に水を引いて、今の十和田市の開祖として拝まれていますが、その模範ともなった事績といえるでしょう。

中学の時の校長先生に、その奇特な先達の子孫の苗字と同じ方がいました。
やはり社会的に一つ何かの志を懐かれておられる、物静かな印象深い先生でした。