六部問題 二


亡くなられた藤沢周平のエッセイに、ふるさとに廻る六部は、という変わった題名のものがあります。
六部は出ませんが、花巻市近辺を廻る紀行文の小題名から採られています。
川柳で、故郷に廻る六部は気の弱り、というのです。
つまり多く六部は、故郷に帰らないでいつまでも亡くなるまで放浪して歩く身の上だったのです。
掟に触れて村を出なければならない事情の者であることがあったと、民俗学の先生の書物にあります。
いくらかは小金が用意できる親族背景がなければ、あの衣装は揃えられなかったでしょう。


遠野の民話に、盗六物語というのがあります。
今昔物語に、藤六物語というのがあります。
調べて読み合わせてください。
話の伝わり方が分かります。
藤六というのは藤原氏の子孫の一人であると言っている名前です。
平家物語で有名な斉藤四、五兄弟というのがあります。中国から伝わった名前の付け方です。
和泉式部の夫の兄弟(れっきとした藤原氏)と思われる盗賊がいて、屋敷内に入った者は土に埋められて帰って来ることがなかったという記載があります。


やはり岩手県の沢内の民話などにも六部は出てきますが、六坊と呼ばれています。さっさと歩く修行僧というイメージはありません。
やや風来坊的な意味合いで、近辺を歩いている人を呼ぶ親しみが感じられます。


以上で簡単ですが、江戸時代の六部と言われた放浪者達そのものの事実的な風貌の話を終えます。
次に六部事件風評問題について触れたいと思います。