六部問題 五


六部風評に告白的なエピソードのものがあります。
ここでは一つ一つのエピソードの内容に触れることはしません。


その家の者同士の会話が残されていることがあります。
会話そのものが、その現場からまるで録音機で写し取られたように、生々しくそのままのように伝えられているのです。
傍で聞いていた人が事情を知って言いふらしたのでしょうか。
会話そのものが露出した感じで、とか言っていたというような伝聞性、客観性がありません。
ひと頃の小説の描写のような臨場感、当事者でもないが、そばに立っている取材者でもない、神の目と耳を持った透明的第三者の臨在的描写の、今、身に感じるような現実性の断片、といったものが突き出されています。


噂に、当事者だけの会話内容そのものが保存されて言い伝えられているということは、何かで相手に申し上げたような事件の噂でない限り、かなり不自然なことではないでしょうか。
まず自分から他の者に告白した者がいたという事になるのでしょう。
自分達はそうやって話していたと、他人に話して聞かせる事自体おかしなエピソードであります。
上記の伝説の場合、告白という背景事実がどういう形であったかをうかがわせるようなヒントは、一切ありません。
いきなりなまなましい息のあるような独白文が吐き出されるのです。


つまり、普通の噂話や伝説のように事実を分からせようとするストーリー的な語りがなく、世界中の民話伝説を見ても他にないような、具体的な独白者の白状だけが差し出されるのです。
そして、単独的にも突き出された、白状という迫真性が、昔からの空気をそのまま保ってきたものでもあるかのように、その時々息を吐きかけて狙っているものは、生な実在感だけなのです。


妙に具体的な、特定物への視点、犯人が今語っているかのような直接性、ちょっとしたその場の肌触りを伝えるような表現、
これはやはり、他の事情と考え合わせても、自然なものではなく、ずばり、誰かが捻り出した巧妙な作品である、と断じてもいいと思います。


立てられてしまった噂でなく、わざわざ自ら白状したと言う、わざとらしいエピソードに限って話しているわけですが、なんにしても白状したと言う本人の気が全く知れないところにも特徴があります。
なぜ、わざと登場者がしゃべったそのままのセリフを届けるような告白を遂げようとしたのか分かりません。
犯人に、そのような具体的告白を償いとするような潔癖さがあったというのでしょうか。
どうせなら黙っていたほうがいいと思わなかったのでしょうか。
打ち明けたぐらいでは罪滅ぼしにはならないのですから。
どうしてべらべらと考えもなく、今にもその場にいるような嫌らしい白状をして人に伝える気になったのでしょうか。
そして、それが昨日聞いたばかりのようにそのまま、この間まで、他の一部の村人の間に語り伝えられていたというわけです。


告白エピソードはみな、本人が無思慮にも打ち明けたものではなく、誰かがことさらに訳あって作為したものであると断定します。
繰り返しますと、この、それだけをいきなり露出するような、いやにその場的でいて、自白者の姿勢や気持ちは何も見えないまま、わざとらしくも元のままのように取り出したような表現が、その人工性を自分から証明しているように思われます。


語りそのものの内部と、語り手の話に、誰から聞いたという根拠の打ち明けが欠けているのも特徴のようです。


最後に、この六部風評問題の日本国全土一帯性という工作的なまでの異常さについて触れてみます。