小国村年代記から


村内に共有されて各地域で書き加えられていた小国村年代記の内の二つは、母の実家が持っていたという桂木野本であり、また同じ出身の小田島理助家が所有していた平沢本である。
最初に小国村開闢の記があって、例の筑紫の落ち武者が山中であへなく怪獣に食いちぎられて、残された二子、つくし(月四)即ち筑紫、ひご(日五)即ち肥後とその妻が、住吉神の山伏に助けられたという話が載っている。
その御礼として家宝の漆塗りの藤の弓だかを奉ったとある。


始めの三番目ぐらいの記事に、山中で村民の分断された遺体が見つかり、その妻に懸想した乱暴者の噂が立ったいうのがある。
しかしこれは後の二三百年の小国村通りの事件簿では例外であって、本当なら唯一の殺害事件と言えよう。


かなり平和な地域であったと思う。
あるのは主に百姓さん達の抵抗精神の表れである、無断取引の類である。
集団的な盗伐事件が世間を騒がしている。
長島氏の子孫が給人として小野寺藩に取り立てられていたが、一味の者として役人数人と共に処刑されている。
集団的な違法行動が目立つようである。
贋金事件もあった。
反抗的な気持ちの連帯が成り立ちやすい人気があったのかもしれない。


残虐なことといえば、逆にお武家さん方の手打ちの問答無用さであろう。
盗伐事件の前の年に、やはり土着していた長島氏の子孫の者がどういうわけか、番所の役人に酒代を借りに行ったのであるが、構え無き者として即切り殺されている。
その番所にはその兄、後で盗伐事件の責任者としての罪を受けることになる給人が勤めていたのである。
その時兄はいなかったのであろう。
その弟は時に山に入り、風雲の気概を養っていたという先行の記述があって面白いところである。


桂木野の家も村役人として登場しているが、位的にはパッとしていない。
隣家が武家の流れだということで、敬意を表してか一歩引き下がり、すっきりとした一元性を地域に示すことができなかったのかもしれない。


このような古文書資料は、すでに、すっかり取り寄せて研究員に読ませてから、地下活動の作戦が組立てられたのである。