村上の家のその後


武蔵はいくらか離れた村の家から姉と妹の二人の妻をもらっている。
姉に二人の子供が生まれていたが、その妻も若くして亡くなっている。
長男、修は当時全国有数の鉄鉱地の工場の事務員に雇われていた。
長島法師人という地名のところで、山平部落からは徒歩でかなりの距離があるところである。
雨の日も雪の日も朝早く、冬にはもう真っ暗に日の暮れた谷あいの道筋を歩いて通ったものであろう。
役人、と呼ばれていたそうであるから、国営企業の公務員ということであろうか。
写真が残っているが、どこか覚束ない感じを受ける。
家に帰らないで、途中の農家で賭け事をしていたことがあったという。
実の母の妹である義母が、心配して、提灯を提げて迎えに出向いたという話が伝わっている。
確か37歳位で肺炎で亡くなっている。
病院に行かないで、家の中の一室に蚊帳を吊ってその中で病に臥していたという。
その亡くなった年の次の年の2月に、たった一人の息子健一が生まれている。


修には同腹の妹と、異腹の弟がいたが、弟は郵便屋さんになって間もなく若くして亡くなっている。
妹は気位も高い人で、行儀のいい人であった。
明治の代の山村に非常に珍しい事件として、初心的に、大人から聞いた侵入活動を嫌がっていたものと思われる。
人間を憎むのではないが、どうしても許せなかったのかもしれない。
自分の兄、修の孫に当る小娘の姿を見て、あいや、もっといい着物着せろ、と叫んだという。
寒いから、人並みにもっと厚い物を着せろという意味であろう。
母は衣服では決して見栄を張ろうとしない人であった。


健一は戸籍簿によると、生まれるとすぐ、すでに亡くなった修の代わりに武蔵の養子としての手続きを取られている。
昔の民法の規定によるものであろう。


父健一は生まれた時から、完璧に生真面目一本やりの人であったようだ。
また、「運命」としても、予めそういう人柄を見込まれて、徹頭徹尾アーネストであることだけしか期待されていなかったのではないだろうか。
陰でも絶対にずるい嘘をつかない人、小細工をして楽に儲けようとしない人、そういう馬鹿な正直者がいるものであるが、まさしくそういう人であった。
結局農家の父無し児の長男として、40歳ごろまでは単なる農夫肉体労働者として暮らしてきただけであるが。
付き合いの遊びでもあろうことなら、乞食根性とは全く反対の、勤倹節約の一生涯を通した、文句なしの忙しい、努力、そして禁欲の人であった。