社を祀る集落の謂れ


山の神様を祭る山の神神社が各地に多いが、御神体は昔の中国の服装をして頭巾を被った木彫りの人形である。
宝船の七福神であろう。
徐福伝説と関わり深い大三島に、全国の山の神神社の本社がある。
三島というのは、本州、九州、四国を指していて、史記にある地名も今の地名を類推させるような漢字で表現されている。
名目の目的地蓬莱山と特定された富士山の近くの三島も、その謂れによってその地名があるのである。
それと似たような由来のある海辺の集落であったというが、後の世の社跡かもしれない。
例によって、後から大冒険心集団が発進した地域の一つであったということであろう。


少年とでもいうべき若者が、ナザレの人に連れられた漁師兄弟のように連れ出されたという。
その頃他所からの難民としてか、河原の石が白々しい土地に住み着いていたのでもあろうか。
(神社、白々とした河原、教会というと、宮城県の米川を思い出す。
邪宗徒処刑の地である)
近くの海岸から上陸したと思われる西洋人の男性が姿を現して歩いている。
この地が選ばれたのは、最初に船が逢着した地点だったからに過ぎないのかもしれない。
三島由紀夫潮騒のモデルのような青春のスケッチが取られているのか。
暮らしは苦しいものがあったと思われる。
いささかむさくるしいというような表現があって、それを書き留められたらしい。
例によって、たまたま出合った誰かがその時言ったぐらいの言葉を背景も無く取り上げて、誇張的に反復させようとすることがある。
お前は昔、(暮らしに困って)ホーだったとか、(運悪く)フーだったとか、(何かその時訳あって)逃げたとか、第三国人を追い払ってしまったとかいって、そのまま何の発展も無い人間であるみたいに、その標をいつまでも押し付けようとするしつこい作戦がある。


集団の中でも少年は一際丈高く、容貌魁偉といえるような特徴があって目立っていたと言えようか。
資料に拠れば、記憶力一番で長く昔のことを諳んじてみせるという実績があったという。
カークダグラスのように静かで、テンポの大きい人であったというのがあったが、その時点での類推型であったようだ。
ずるいことや小細工のできない、そしてうまい嘘などつけようもない、穏やかなお人よしの遺伝でもあったろうか。
この邪気の無さは完璧なもので、人によっては間が抜けているようにも思えるような強い特性である。
口汚いことも言えないが、小利口に言い逃れることもできない。


何か家族で契約の膳に就いてしまって、覚悟の舞を演じた、というのが想像される最奥の心事であるようだ。
火星の裏をも回るような思い切った勢いで踏み出したものといえようか。
グループで寺の縁先などを借りて、村人を集めコンサートをやっていたという。
そのグループ内で、シューベルトをやるか、語り的なフォークソングをやるかで分かれたことがあったらしい。
これが、後の世の、ざらっとした、一見匂うような、長髪でむさくるしい身なりのグループサウンズコンサートのいわくであり、鼻祖というものであったのかもしれない。
説教節とかだらだら節とかあったが、何といっても思い出すのものに、クレージーキャッツのスーダラ節がある。
小林明さんにもズンドコ節がある。
あ、のんきだね、というのなのだろうか。


兄がいてその家族が後で悔やんでいたという。
眉黒な感じの少女も記念写真に並んでいたようだ。
やはり一族であったろうか。
岳村の村上の家の近くに、かまど家があって、似たような顔貌のふたごの少女がいた。
大勢の兄弟がいたが、このふたご姉妹は特に村上の家に寄ることが多かったという。
何かのお役目の意味が潜んでいたのかもしれない。
大概、落ち着いて趣の深いところのある、厚かましさのない、口元静かな人達であった。
誤解のないように言えば、この家の人達は、上記由来書きとは何の関係もない。
目された青年タケシが入ったはずの村上の家の近くの家だというだけで、江戸時代以来のツーの意味を被せられてしまった、ということであろう。
姉妹兄弟の家は、何のいわれもない農家の分家であるというに過ぎないだけでなく、実は、他家筋の分家との婚姻によって、徳川氏類推松平春嶽公の子孫でもあるのである。
土着した大名家系長島氏の流れも受けているという。
ソーラン、ソーラン、と昔の歌声の響きが聞こえてくるようであるが、背景の家柄を意味していたことになろうか。
世界総覧の偉人でさえ輩出可能であろう。


一方、潜在的な記憶の蔵の奥行きを認められ当てられてしまった青年タケシは、朝の海辺の石原の上に立っていた時、神の計らいに運ばれるように、誘いの声に連れ去られたのであるという。
明治十年代の事である。
自分の欲得で人を欺くことのできない青年であった。
すべて計ったように、神の目の臨在している出来事であるだろう。
一緒でなくとも、その後その宮のある土地から続く人が少なくなかったようである。


青年タケシはその後帰ることも無く、どこか近くで多くの子孫の先祖になっているのかもしれない。