続いて、巨石文明について


スペイン発で、イギリスに渡り、その文明を担った人たちが北部ハイランドに移って暮らしているのではないかというレポートがある。
その後、東方に、青銅器文明の発展や農業の発展と伴ってその遺跡が広がっているようである。
強力な中央集権の成立とともにピラミッドの建造が始まったのと通じる、共通の、人類の社会活動濫觴期の営みであったいえよう。
中東から南インド、タミル文化地域に渡り、かなりの隆盛の跡が見られるという。
この場合、海を渡ってインドネシアに伝わっている。
地震の被害地スマトラ島近くのニアス島等が巨石遺跡の島などとして紹介されている。
近くの浅瀬の海底にも巨石を切り敷いた壇状の建造物が見つかって映されたことがある。
太平洋に出て、最後にはイースター島に人形となって並んでどこかを見つめている。
ハワイ方面かどこか、故地を向いているのであろうか。


奥深い文化の重畳する中華文明の中で、取り立てて巨石文化というものの記述について目にしたことはない。
朝鮮半島にはれっきとした巨石墳墓遺跡がある。
これが鉄器文化と騎馬文化を伴って日本の統一社会初成立期に大影響を及ぼした渡来勢力の跡と考えていいのかもしれない。
日本にもれっきとした巨石構造物は数多いそうであるが、あまり紹介されることはない。
この頃には前方後円墳が独特な定型的なデザインで、大和王朝の王のための大墳墓建造物として他を圧して出現している。
ピラミッドと全く同じ巨大な、亡くなった支配者の葬儀用建造物の始まりであるが、ユーラシア地域では、鉄器文明や王朝制の渡来と始まりと共に、日本が一番遅いことになる。
その遅れは決して日本民族の特徴を示すものでなく、大陸文明から最も遠ざかっているからに過ぎない。


今と同じく、いや今よりも人類の文化は伝播とファッションの世界である。
そっくり同じ物が地球上いたる所に広がっている。
それは人間は同じものだからひとりでに偶然同じ物を考え作り出すからではない、そっくり同じ物を学び伝えるからである。
たとえば分かりやすい、アシュール石器とか、遮光器土偶などを考えれば、大量生産時代の今の流行とおなじものを実感する。
世界に広く、古くから共通する神話や童話の要素なども、個々の人間の内在的類似から説明する人が多いのであるが、人類の先祖が実際に体験した重大事件を語り伝えるニュース報道性にその根拠があるものと信じられる。


たとえば、シンデレラの物語やジャックの豆の木などに古いものを感じる。
日本にも古くから鬼を追うついな行事があったそうだが、宮廷から外に出て、豆を撒く節分会というものとなって、日本一般社会に最も広く根強く生き続けている習慣の一つとなっている。
ジャックと同じように鬼から打出の小槌を盗み取って、豆を投げつける狂言のストーリーがあるそうだが、これは割と新しい伝播によるものかもしれない。
ちなみに、数を根源視して、天球の音楽を幻聴していたというピタゴラス教団は、特別に豆を遠ざけていたが、西洋人の一割にも及ぶ人数の遺伝子に豆の成分で発病するものがあって、ピタゴラスもそのグループに属する人だからであろう。
人類と豆の木との出会いは大きな出来事であったのではないか。
豆の木というものはアフリカのフローラでは主要な要員である。
日本語では豆は、健康を意味し、勤勉を意味し、忠実を意味し、ついには好色を意味する。


シンデレラ姫の物語と同じように古く語られている物語に皮かぶり姫物語がある。
人類の母の若き頃の出来事の語り伝えを、私達は今に受け継いでいるのではないだろうか。
古文献的には何の連絡もなく、日本では確か1000年ごろに、落窪物語というシンデレラ物語がまとめられている。
人類の母は、結局大人数の子孫の祖として尊敬され、その若き頃の物語は必ず姫の物語として伝えられていたのである。
寒くて、小娘が煤まみれになってまで丸くなって、焚き火の残りに暖をとっていた姿が眼に浮かぶようだ。


また、生存競争のために近似的異物を排除してきたという要素も多く秘められているようである。
ホモサピエンスばかり生き延びて、他の人類が全部滅びているということは、病気や飢餓だけでは説明しきれない事態であると思う。
農耕の開発期に河水を治めた功績をドラゴン退治とか、大蛇成敗にたとえて広がっている話も、このような鬼退散の古典的パターンに吸収された例であろうと思う。


犬や猫の飼育の広まりも飼育文化の模倣と伝播という、石器や青銅器や農業や騎馬の広がりの場合と同様、人間の特性を示す一例といえよう。
猫はエジプトに生まれてからは他に生まれたことはなく、万世一系であるという。
犬もそうかもしれないが、確かに猫は犬と違って、顔の模様が安定している。
偶然に同類のものが別個に併発するということは、学者が言うほどないことなのかもしれない。
人類起源アダム説も、この原則を純粋に突き詰めるとそういう一点が指摘しえるということである。


日本の王朝期スタートの遅れが、伝播の遅れに過ぎない証拠に、氷った日本海を渡れる時代の先進文化、肉を細石器処理して煮炊きする調理文化の調度、縄文土器の伝来とその発展には世界に冠たるものがあるのである。


単語が違うが、文法がまるで一卵性双生児のように最後の尻尾まで同じという、他の国同士には見られない日韓語の共通性は、弥生時代の始まりの頃の影響であろうか。
地図帳を開けてみれば分かるが、中国や朝鮮半島の地名に例外がないくらいに多い撥音が日本列島にはきわめて少ない。
東アジア地域では珍しく、堅い原則のように語尾に母音を失わない。
中国文明という圧倒的な影響下にあっても、これは崩しようがないほど、縄文人渡来以前数万年の言語生活のうちにも凝り固まって変えられない核となっていたものがあったという証拠である。
ただし、撥音が多く母音終わりがない特徴は、ユーラシア大陸の両辺地の言葉、英語と中国語に特に顕著であって、どちらかというと古典的な言語にはない特徴であるのかもしれない。
偶然にもこの珍しい方の二つの言葉の民族が大発展して、世界を大きく占めようとしている。
いやそれは偶然でなく、実用的でない旧来の飾りのような規則を追っ払う現実主義の精神が言葉の使い方に表れ、また民族の発展に有利であったという真実を見せているのかもしれない。
すなわち、両言語とも、活用文法を一切捨てて、言葉の位置だけで済ますという双子のようにそっくりな簡便さを共有している。
字がいろいろに発音されるという類似性は偶然的なことといえる。


中国民族などを新ジア人という。
典型例でいえば、ひげが薄い。白い。
眼窩が浅い。唇が薄い。耳たぶがまるっきりない。一重瞼。鼻筋がスラッと通っている。
氷地狩猟時顔が凍らない用意でできた特別な顔だという。
寒さ対策の顔の特徴は西洋人にも見られるが、顔そのものが凍らない仕立てというものは、かなりの淘汰現場を潜ってきたことの証であると思う。
日本人は6,7割このハンターの遺伝子を享けているという。