箱崎牧場跡


中国の歴史に、盗賊は身ぐるみ剥ぎ取るとまた着て来いよ、と放してくれるが、役人は盗賊を成敗したという証拠が欲しいので、命を盗られた上に鼻や耳を削ぎ取られないと許してくれない、と庶民が嘆いていたという話が伝わっている。
取る、という字からして、兵士役人の手柄に耳をしるしにとる、という意味からできているのである。
昔は首を取っていたのであるが、簡略化したということであろう。
葉隠れなどを読めば、日本でもそっくり同じ査定の流儀であったことが分かる。
古代の王朝はどこでも奴隷王朝であったようだ。
日本は同じ人間を奴隷にすることでは、二千年も三千年も遅れてスタートしたといえる。
多くの漢字が奴隷制の時代の行政を今に伝えている。
童という今日では最もかわいらしい意味の字も、元は土の上に、眼を見えなくされてまるがれている奴隷を指しているという。
最もうれしいことば、幸せを表す字は、人を縛る手かせを指しているという。
つまり庶民の最大の幸運の表現に、手かせからの解放が採られたということであろうか。


飢餓時代に農民が蓬を食べて凌いでいたことがあったらしい。
役人が来て、ここの農民は木の葉を食うのか、木に緑がある限り、農作物を搾り続けろ、と命じたという話があった。
永世長寿の妙薬に蓬が採られていたのか、永世の国の山を蓬莱山という。
徐福は永世を強く願った秦皇帝に奏上して東海への大船団を用意してもらったという。
蓬莱山は不死の国の山であるから富士山と名づけられたのである。
周辺に徐福渡来の伝説が多く採集されているようである。
三島の地名も徐福渡来に由来しているといえる。
瀬戸内海の大三島に本社がある大山祇神社御神体に、みちのく長島では、山の神様として神社に珍しい人形が安置されているのだが、他所ではどうであろうか。
頭巾を被った姿を拝むと、七福神や宝船を思い出す。
打ち出の小槌、米俵、袋、これらは皆渡海の船に積まれていた植民用の品々を指すものであったと思われる。
農業の渡来に大きな働きを成した重大な歴史的事実であったと考察すべきであろう。


母の実家に大きな七福神の飾り物があったことを今懐かしく思い出す。


蓬生というものは日本の文学的表現ではなじみのものである。
若芽若葉の頃の広がりの色合いも妙なるものであるが、末枯れた頃の蓬原というものも味わいがあるものである。
箱根だかに名勝地があるそうだが、広く歩いたことがないのでせいぜい近くの箱崎牧場跡ぐらでしか見たことがない。
そういう所に一団で暮らしていた人たちがいたという。
ちょうど申告漏れ事変で、かつてないほど大量に全国的に農民が自分の農地を失って、生活に苦労していた時代であった。
軽視して無視してしまったり、手続きが分からないで届けなかった人もいたようであるが、抵抗的に応じなかった人もいたという。
集団にまとまりのようなものがあるなら、うっかりしたものでなくレジスタンスの精神があったものといえよう。
代々の田畑を人も無げに追い払われて、憤ろしかったであろう。
しかし今はすっかり取り戻して子孫の方々が生活しておられると思う。


少年がどこか高所で疑わしい事故に遭って、僧院のような勤め場所を去ってから、やはり、その姉の状態が悪くなったのではないかという。
歩くといったってどうせ連れられて予定された所へ移るだけだったろう。
山中の片岡のような所では、うら若い身の上に相談相手もなく、心細くてくたびれてしまっていたと思う。
もはや自分自身では将来の何のめどもなく、今辿らせられていると思われる道筋から離れぬよう、ひたすらに頼りすがって行くしかない。
どうも神経質になって、パートナーに当るような言動が見られたという。
生活が嫌になっていたことは間違いない。
パートナーが結局治療も受けられなくなって、にっちもさっちも行かなくなってしまった状況下、間に合う生活力があるでもなく、とうとう末期を自ら早めてしまったのではないかと、ちょっとした疑いをもたされる事があるが、見ていた者がいたのではなく、外部にいた者がなぜかそのような想像疑惑を抱いて、伝えたものがあるからだろう。
パートナーに選ばれてしまった人にはあまりに気の毒なことである。
まともなことではないが、一帯に多くの人が食べるだけでも難儀な時世ではあった。


活動組織がどのようにこの人の目の前に出て指示したり誘ったりしていたかはまだ教えられていない。
おそらく記録さえ残っていないと思う。
地下といっても、射光器と使われ始めたラジオと有線電話である。
ラジオが本人に気づかれないで携帯させられているというような時代ではない。
放送局を設けるということも今のトランシーバーのように簡便なことはなかったであろうが、どうであったろうか。
やはり推測するのであろうが、あるヒントによると、射光器のイメージばかりでなく、どこかから道案内の声音が掛かっていたのではないかという。
地下からの電話であったろう。
西洋人からの体験談のように、このような時はあのようにするものだ、とか。
そういう人物はこうするものだ、とか。
はっきり意識していて聞いていたものと思う。
その通りにやってみるという主義であったろう。