半島において、この運動と歴史の動きをつき合わせて見る


必要な観点を指摘したまでで、ここでは二三の例を取り上げているだけである。


隣国との絡み合いの多い長い近代史において、どうしてもこの地下活動のテーマとして、両民族の行き来が掲げられていたのである。
従って意外と何らかの関係者が多く、歴史の事実も知らないで恐ろしくばかり考えている人が少なくないと思われる。
民族的係わりを自分の問題としない人も、歴史ともっともな背景は知るべきであろうと思う。
誰しも運動の影響を受けてしまう世の中になっているが、何かしようという個々人の気持ちが先にあったのではない。


没落農民の人たちに声がかかり易かったであろう。
明治維新前のことになるが、東学党以前最大の民乱というほどの反乱が、晋州という北方国境近くの町で起こり、広く拡がったようである。
没落農民(たぶん勢道政治の紊乱で役人に強奪されるという目にあった農民であろう)の「樵軍」から始まったものだという。
北方の木こり集団ということである。
聞きかじった事の片片を書き写したものの一つに、「アイスドロック゛」の国から降りて来た人たちというのがあったが、この樵軍の生き残りの人たちであったのかもしれない。
小国長島のペアのように、雪国で眉が特徴的に黒々しくて、たぶん冬にも雪で氷った伐木を鋸で引き切りしていたのであろう。
大統領も出たという話があったが、間違いの場合にはひらにお許し下さい。
眉が濃いというのは、そもそも北方系の特徴であろうか。
いずれにしても、どちらの国でも、統治者でさえ地下活動の影響で運ばれていたという事に気づかされることがある。


反乱農民は長く疎外抑圧される場合があって、山居生活を余儀なくされていた集団もあったようで、この樵軍というのはまさしくその例であったろう。


東学党農民反乱は大規模で、結局指導者は逮捕されるのであるが、参加農民の中にはやはり抑圧差別の例があったらしく、この間それをテーマにした韓国人の先生の講義があったようである。


こういう人達は反乱後いろいろな生活をしていたのであろうが、当然、地下活動組織に目を付けられて、大いに誘われる標的集団の一つであったのである。
この間の戦争と対外義兵で陰に隠れているが、その前には、大規模に農民が土地を失い、一国的に大挙して農民が武力を振るったという大きな歴史事実が背景にある国だったのである。
参考までに、晋洲の暴動以後、1869年に全羅道で農民の武装蜂起が起こっており、1883年からは94年まで農民暴動は拡大する一方であったという。
東学党の大乱がすっかり収束させられたのは、明治27年頃の事である。
農民の武装蜂起というのは、日本ではキリスト教島原の乱以前には、室町時代一時期に土一揆一向一揆というものがあって以来音沙汰のなかったものである。