事件にはすべてあまり罪深くないエピソードの由来がある


長島峠に向かった大きな理由に、heburi 戸振 という地名があったと思う。
そこの山平部落の周辺には真名板とか耳取りとか大石とか狐穴とかの地名があった。
地域の特徴といえば何といっても、途切れなく続いていた銅鉱山の土地柄であったことであろう。
そして、山平村は早くには、明治期日本国有数の銅鉱山を置いていた所であった。


先に書いたように、上の家は泥棒を追いかけて、人をまるた家であった。
丸太はログで、ろぐしてる、ろぐしてる、と言うのである。
ことばは延々と乱用されて、ついにこの形式の日記も、ブログと名づけられるに至る。
ちょうど同じ頃に、宮沢先生の弟さんの名前はは清六であったが、山平の家のごけ(後夫)の名前は助六であった。
そして、山平の家の当主が健在なのに、わざとらしく脇の者が、山平という立派な屋号を飛ばして、すけろくえ、すけろくえ、とはやすみたいに、途中から入った老人の名を屋号代わりに使うのであった。


地域の古文書や民話にもいろいろな目を引いたであろうような記事があった。
小国の猿橋という所に、長島川の岩岩が一際白々として明るい景勝地がある。
地名はそっくり大月市の有名な猿橋にあやかったものと思われる。
この近辺に住み着いている人たちはその地名の猿橋を名乗っているが、大名長島氏の子孫が秋田まで逃げてから戻ってきて、そこで農民となった人たちである。
代々給人として番所勤めの者を出していたようだが、小国通り一番の事件の責任を取らされて処刑されている。
民話に地名の由来を語るものがあって、耳取りはそのまま人間の耳を引きちぎった所であり、大石はその大悪魔が岩を投げた所であり、猿橋はそのまま猿が手を繋いで橋を懸けた所である。
人をだまして川に落とし、人を食う話になっている。
川原に累々として余計に目立つ白い岩石の理由は、その散乱している人間の白骨の数の多さに求められている。
このような想像上の伝説が後の地下活動の悪戯のヒントとなったのかもしれない。


フォーク(拳)歌手は理屈っぽく説教節であったり、寂しく独り語りで、素手でボロっぽく、ロック(盗六伝説)歌手はある程度ファッションで、歌い方から歌の中身まで不良っぽさを押し出さないといけないことになっているようである。


人間丸太も強いられたが、ロッキーも着せられ、いろいろなログオンも用意され、最後には世にいることのない「公」なる者を掲げて、どうしてもあらくれることたけしか、上には頭がないようだ。