イギリス人の地下組織が思い切って自己紹介を始めたことは頼もしいことである。

かなりの、舞台裏に秘されていた真実の歴史と実体の公開があった。
組織の構内の秘密の庭には、伝統的に、圧倒するような学問芸術の実力支部も一番の誇りとするようにそびえてきたのであろう。
その実力の行使といくらかのストックの紹介というものが、実筆者でない者への忌まわしい地位と給与のモチとアンパンにならない形で果たされたら、この百何十年かの運動の始末の腹の据わりに、後戻りのない落ち着きが広がるものと思える。


日本人の由来について復習してみると、南インドタミールに通ずる稲作文化の伝播ルートが注目を引く。
大野晋先生の発見による日本語とタミール語の共通性、農業文化の類縁性はもはや、日本の昔を考える場合、無視できない程にあからさまになってきていると思う。
大昔は文化の渡来は、一人二人の師匠の渡来ではなく、その文化生活をしているグループの植民渡来があったことを示していると考えていいと思う。
南インドから雲南高原地まではビルマの大河を上れば近いことがある。
鼻の長く高いタミールの一派が、ここに農業の文化と、日本語に通ずる言葉の多くをもたらしたと考えてはどうだろうか。
風貌においても四川省辺りの丸顔円眼とは一線を画しているようである。
雲南日本民族との間の何やらの因縁については誰でも気づいていることである。
ここみちのく岩手の江刺辺り、雲南という地名が少なくない。宇南などと書くこともある。
農耕儀式開始時の命名であろうか。
とにかくタミール系の原日本語言葉がこの雲貴高原のどこかに滞在していたと考えるのが妥当であろう。
今は見当たらなくても。
でないと、南インドと日本列島がいきなり出くわすことになる。
幸いにも中継点として、移住ルートに河があって、すでに疑いの濃い雲南省がある。
民族の先祖を数少なく考えることはないが、弥生人すなわち日本渡来の新アジア人の原点をここに置くこともできる。
この新アジア人はバイカル湖辺りで、マンモスハンターとして暮らしていたものだといわれている。
その人たちの一グループが他のグループと一緒に、蒙古を越えて南下したものと思われる。
今の韓国人や中国人の多くである。
タイ人もブータン人も、顔を見ればれっきとしたこの新アジア人のタイプである。
このタイ人種と、原地中海人種とも言われているタミール人との混血がもっともらしく思われる。
鼻が西洋人に負けないくらい高く長い遺伝子が九州四国辺りにも古くから土着しているというのは、この間の謂れによるものであろうか。


司馬遼太郎先生の文化人類学的観察に、大分県人にアジア人と違う、蒙古襞のない瞼をした人が多いという指摘があった。
思えば、この地域に、ある資料に拠ると秦氏が7,8割の人口を占めたと思われる時代が古代にあったようである。
その名残が、全国の八幡神社の本社、布佐八幡である。
八幡は本来やはたと読むのであろう。
や、とは八百屋、八千草といって、非常に多いという意味である。
司馬先生はキリスタン大名大友氏の頃、貿易船が出入りしていてその船員達との混血が多かったからではないかと推測しておられる。


この地中海人種というものは他でもない今のポリネシア人で、歩きに歩いてその一グループはハワイやニュージーランドを最終の住居地としたのである。
原点は西ヨーロッパで巨石文化を担っていた人たちといえようか。
南インドに多くの巨石文化の跡が見つかっているようで、その種族の人達の歩いた道筋が窺われる。


南インドでインド発といわれる古い稲作技術に出会いそれを習得したのであろう。
新石器時代の始まりにも上って考えることができる。
とにかく稲作文化とタミール系日本語は雲南を出発しなければならない。
チベット高原の東端雲貴高原の一箇所にビルマから揚子江河口までの全部の大河の源流が集中している。
ここにおいても揚子江は日本のどの川より比較を絶して大きく地図に描かれている程である。
ビルマから上って力をつけた原弥生人は、次は江を下って例の呉越民となる。
稲作技術は生活力において、ここ江南においてこそ圧倒的な優位を保証してくれるものであったろう。
しかし中原の覇者であり続けるのでない限り、日本や半島に渡らない人たちは早々と統一中華に吸収され、跡形もなく一つの漢民族の文化の範疇に収められている。
どうしても、稲作文化とタミール系日本語がかつてここにあってその生活があったと考えなければならない。
でないとかえって空想的な飛躍が必要となる。
現実的な試論が成り立たないと頭から無視してしまうものである。


チベット高原チベット周辺を歩いてヒマラヤ南麓やインドシナ北部にまで渡って暮らしていた新アジア人が、雲南省で別人種のタミール人と出会い、その言葉と独特の米作文化を担って、やがて江を下り、久しぶりに昔兄弟であった今中原にいる新アジア人とあいまみえたということであろう。
このグループに江南の米作の由来ををすっかり背負わせるのなら、それはそうとう古い江下りであった事になる。
メソポタミアの麦作に学び始められた稲作技術は、はるか大昔にインドを出て、東アジアに伝わるとすれば、北は西域回りが確かにあって、東はインドネシアからはるばると北行することも可能であったろうが、歴然とした証拠もあって、雲南、江南のルートが最も重要な道筋に見えてくる。


もう一つ、刺青文化を鮮やかに伝えてきた二大民族といえば、稀にも日本民族ポリネシア人である。
この共通性の謎が、上に述べた雲南高地での出会いによって解かれる。
つまり刺青文化が上記日本民族弥生人ルートを傍証する生きた証拠となっている。


日本人の由来について、このダイアリー内にバラバラに書いてしまったものがあるので、参考にしていただければ幸いである。
2005-2/10 2/11 3/4 7/14