いろいろな東洋人極悪人のプラモデルを世界博物館に展示するぐらいの気で、思いっきり残忍な活動を指示し続けてきたのである。引き受けるものではない。本当に、犯人というものも丸ごと身代わりしてもらえると思って、自分はいつまでも見つからないものと思ってやってきたものと思う。そういう性格で今も、使ったうら若い女性を指差して、やったやったと言い立てる作戦を下しているのである。


思えば、桂後沢の吉右衛門の家は、正しく役人様不十分と雫石方面まで、注進に及んだ家であった。
コピーアーの家の前に、注進けね、という銃口点があるようだが、意味がわからなかった。
本は読むもので、「坂の上の雲」に、役人言葉として、注進が出ていたのである。
異常事を見つけた時、決まり文句のように、上司に、注進、と言って報告したようである。
たまたま読んでいないと、その言葉の奥行きに思い至らなかったであろう。


戦後上の家の周辺の親族の不幸が続いたが、運動の障りであったと思う。
ダム工事事故で亡くなった人。
小学生兄妹と施設に入っているもう一人の娘を抱えた母親が残された。
自転車で通勤中事故で亡くなった人。
やはり幼女と母の母子家庭が残された。
二十歳前後の兄弟とその母を残して、胃がんで亡くなった人。
三十年も四十年も前のことである。
今では行方不明事件でいなくなってしまっている。


父健一は四十近くまで寡黙な専業農夫であったが、三十九歳で脳卒中に当たり、意識不明全身不随にまで落ちてから、徐々に回復して、左手が動くようになると一所懸命に左手で書く練習をした。
すっかり書けるようになってから、今度は右手が復活してきて、結局元通り右手で書くようになった。
四十過ぎてから、独習して身に付けた簿記術で経理の仕事をするようになった。
眠るまで亡くなるまで、日曜大工保守修繕畑仕事で動き回り、家に帰ってから夕食後湯を飲むだけで、テレビの前に一時座ることもなく、薄暗くなった家の周りに出て行くのであった。
忍耐規律勤勉の姿勢を一瞬でも崩したことはなかったと言えよう。
一生涯体は不自由なままであった。
山出しで小学校しか出ていなく、病気で遅れをとった人生でもあって、人と話し合うのが苦手であったようだ。
糖尿病が悪くなっきても、会社を休みたくなかったのか、どうしても病院に行こうとしなかった。
結局路上で倒れた時と家から救急車で運ばれた時にしか病院に行かなかった。
正社員になったこともないので、退職金もなく、年金も一回も受け取ることもなく、66歳で亡くなっている。
常に前向きに節制努力の生活をして、馬鹿真面目で、人の悪口も言わない人であった。