小国村の苗字事情


NHKの小国村を紹介する古いドキュメンタリー番組を観て、思い出すことがいくつかあったので記しておこうかと思う。
結婚式が写されていたが、小国村で一番古い家の吉田さんという青年が紹介されていた。
吉田さん、聞いたことがなかった。
しかも一番古い家。
小国村といえば、村の開祖の住吉さんがある。
住吉はもと隅の江といったのである。
大きく、瀬戸内海の東隅、今の大阪府一帯の湾岸を指していたものと考えていいのではないかと思う。
日吉という名も、比叡山日枝神社の日枝が読み替えられたものであろう。
その名の通りに、小国郡の住吉神社は、伝説の御神体を四体、長島川とその支流が湾曲して隅を成している所に置かれている。
その住吉神社宮司格の吉田さんということであろうか。
吉田兼好
電話帳を見ると、小国村でも北部の川舟地区に集住している人達のようで、そうでもなかったか。
NHKもいいかげんな情報を採り入れて番組を制作するものである。


藤原氏というのが多い。
また、新田氏というのも多い。
平泉藤原氏の家来に、新田源氏とは別に新田氏を名乗った一族があったそうである。
この主従関係が小国村に潜んでいたのか、と思うのはあまり想像的過ぎるであろうか。


多くはないが、羽柴氏というのもある。
柳生氏というのもある。


長島小国村地域にも、現在確かとされる日本列島最古の人跡、三万年位前の旧石器があちこちに見つかっていて、それ以来人の連なりと暮らしの連続が絶えたことはなかったであろう。
深沢、平沢(この苗字の人がテレビ創始期にNHKの解説委員として登場して国民に親しまれている)、泉沢、柿沢、米沢、このような人達が、縄文時代までのこの地域の主かもしれない。
ちなみに解説委員の平沢さんの弟に当る方が平沢鉄男先生といって、中学の時の英語の先生であったことを思い出す。
小国村は教育界でも多士済々の郷土であった。
無料医療、乳幼児死ゼロの功績のあった村長さんは深沢という人である。
小国村村民の古くからの特徴を窺い透かして見るのに大変有益なのが、預り処分で滞在した武士が執筆した「小国村風土記」であるが、全文漢文なので読みきれない。
それを訳して下さったのが、福岡北高校の漢文の先生をしていた、泉沢という方である。


高橋は九州の筑紫から来たと、小国村開闢譚に紹介されていて、断トツに多い苗字である。
次に、やはり他を引き離して佐々木という苗字が続く。


高橋苗字は、古い由来としては一つに、天皇家の末裔に当る付き従いの者が、蛤の膾料理を奉げた功により内膳の司に任ぜられた家系が有名である。
高橋の虫麻呂もその家系の人であったと思われる。
その他の流れで、武将として高々と現れる氏族はあまりなく、筑紫大宰府近くの豊満城の主であった家系が長く続いたようである。
並立する家系に、原田とか立花とか谷とか秋月とかいろいろな苗字があって今に活躍しておられる。
坂の上の田村麻呂が一番の有名人であろう。
一関藩の田村藩主がその子孫であることを伝えているという。
高橋氏は城主としては、大友宗麟の頃に種が絶えて、すっかり大友氏にその名跡を抱えられてしまう。
その自分の甥かが、高橋を名乗って継いでいた頃、キリスタン大名の大友宗麟がその高橋氏の妻が美人だというので、戦をけしかけたらしい。
それが島津氏辺りまでを巻き込む大戦になったと、史書にあるようだ。
大分は南蛮船で最も賑わった所らしいが、どうもバタくさい話である。
これが、「レンズ術]というものの日本国土に忍び込んだ最初であったのかもしれない。
ギリシアのヘレンの話ばかりでなく、キリストの先祖すなわち大勢のセム系ハム系の先祖に当る、イスラエルの王が、家来の妻が湯浴みしている姿を城のベランダから遠見して狂い、その家来を必死の戦場に送ったと、旧約聖書にある。
井原西鶴にも望遠鏡で二階から人妻が湯浴みしているのを覗き見する話があったが、こんなところにまで大昔からの伝え話の反響が届いているのかもしれない。
高橋は筑紫地区では大きな地名であったが、今地図で見ると無くなって来ているようである。
苗字としても健在であろうが、一番多い所は、ちょっとした資料で推定するのであるが、やはりここ、小国長島の隣の市、福岡市であろうと思う。


ついでに日本全国大苗字の鈴木佐藤高橋の人口であるが、記憶違いでなければ、意外と少なく、それぞれ、100万人、150万人程度のものである。
同姓の人は意外と少ないものである。


小国盆地は東北のど真ん中の山脈の中にすっぽりと隠れた離れ里であるところからか、中世福島氏の子孫が多い。
猿橋氏、小田島氏、深沢氏、有馬氏、多田氏、小原氏等、外部の上っ面な風聞だけでは知られない多くの由来話が各家に潜んでいるのかもしれない。
猿橋氏は一番の主筋であって、早く小野寺藩給人にも推されたようである。
ところが小国通り一番の集団盗伐事件の首謀者と目されたのか、切腹を命ぜられて以後越前端番所役人の職から解かれている。
多田氏というのは福島方面にもおられる、摂津由来の多田氏の子孫である。
摂津の多田氏は全国に四散した氏族であるらしい。
武田氏に仕えて、その武田氏の敗亡によって、他の家臣団と同様再び四散したというのが、みちのくに多い多田氏の想像し得る経路と思われる。
小野寺氏の縁で山形方面に多く展開したものであろう。
この縁で福島氏はそれ以来麗々しく源姓を系図に掲げてきたのである。
多田氏の一人が小国で真宗の庵を結んだのが、後の碧山寺である。
確か、山王路の城主をしていたらしい。
その城跡の丘は公園になっていて、今快適な町民の散歩道となっている。
しかし、住職は代々、かつての小国の領主福島氏一族の姓である坂田を名のっておられる。
前に挙げた深沢氏というのは、一時福島氏再興を図ってこの深沢の地に籠り、坂田氏を名のった福島氏家臣の子孫に当ると、この間インターネットで読むことがあった。
碧山寺の今の住職の方は、古くから地域の教育文化の発展に尽くされた方で、村長としても最も長い任期を勤められてきた方である。
コピーアーの小国村通りの古文書知識の多くは、この方の出版物に拠っている。
有名な文化人、学者が血縁者から出ておられるが、この人たちは隣県の苗字の方たちなのであるが、この碧山寺坂田家との深い血縁で、特別に小国村出身と紹介されることがある。
また増田吉二という民話収集家がいて、このブログに記されている小国村の古記録情報の多くはその方の民話本に基づいている。


久保氏、大石氏、加藤氏、石川氏、この4苗字が、上記、高橋氏、小田島氏と並んで、江戸時代に給人士分にあずかってきた家の苗字である。
高校時代の漢文の先生に石川邦夫先生という人いたが、たまたま川尻で小学校の代用教員をしていたのを母が知っていたのを思い出した。
歌作がうまいということで特別に紹介された先生であったが、山王路高校だかの校長先生にまで登っておられたようである。必ずしも沢内通りの石川というのでもなかったのかもしれない。
加藤氏は福島方面から来た人で、天国の鑓というものを献じたによって取り立てられたという言い伝えがある。


他に、泉川、石井、大川、刈田、北村、黒淵、児玉、近藤、佐藤、田中、照井、内記、中村、藤田、松本、三浦、村上、山鼻、和泉と、数の多い主な苗字を挙げただけでも、なにやら縁のありそうな多彩な一族があって、にぎやかな貫禄を示しているものだと、感心する。


小国村は山間の盆地で、土着農家由来の苗字であるか、外来の苗字であるか、地元の古い人達なら記憶のある所であろう。
すぐ隣のコピーアーが生まれた長島町となると、少し年輩の人でも土着の苗字か、外来の苗字か見分けが難しいであろうと思う。
なにしろ、藤原時代以来の絶えざる金鉱地区で、明治期からは全国でも有数な銅産出地であったのである。
またにぎやかな温泉地でもある。