吉右衛門の妹であった、とコピーアーの将来


共和磁鉱に勤めていた母親の娘が東京に出て嫁いだ話があったが、その母親は吉右衛門の娘か兄妹かの問題があった。
その母親は明治29年の生まれである。
それから孫が生まれる昭和初年までは30年の間しかない。
共和磁鉱に勤めに出たのは、山村には珍しく頼みになるからでもあったろうから、年若い少女の年頃のことではなかったろう。
するとどうしても、吉右衛門の妹であったということになろう。


母が言っていた事を思い出す。
・・・さんの奥さんは、やはり人情味が違う。
素朴でずるいところがない。
おっとりしている。
あったかみがある。
というようなことであった。


山本の家はアメリカ独立宣言の時代より古い農家で、遡ってもどこかの家から分家したという言い伝えもない。
運動が始まってから特に出世した者は一人も出ていない。
どちらかというと百年も不運続きで、今になってたった一人やっとまともに働けるようになって勤めているのが、コピーアーの弟である。
コピーアーは、自分の名でこれから偉くなろうと、なにかの準備をして前進しているのではない。
すでに57歳で、メッキ工をやったぐらい、人の手も握ったことなく妻も子も経験もない。
運動の公正な発覚のお手伝いにもっと邁進するべき、だけであろう。


ついでに、人との付き合いもない孤独な悪戦苦闘の日々の証拠でもある、これまでに取得した国家資格等を並べてみよう。
念のために、理解のないカンニングだけでとったのではない。
ボイラー技士、測量士補行政書士宅建主任、保育士、日本語教育能力検定。
禁煙にも成功して、何年か経っている。
貯金も一千万円以上孤独工員の安給料から貯め上げたが、なんと思い切ってフォスタープランに一括寄付してしまったものである。
遊び相手がいないとこういうことにもなる次第である。
痛ましいことの絶えない世の中であるが、嫁をもらう気をなくしたことはない。
古い農家の後を受け継ぎ管理するパートナーが要るのである。


人を攻めた事もない、欲張って競い合っているのでもない、隣近所には何一つ迷惑を掛けた事のない、日本一のおとなしい善良な家庭であったとは言ってもいい。