もはや追い越されることのない最終の英知によれば

月が錯視で大きく見えるというのは誤りです

前に報告したことですが、ご挨拶に、例によって本の小見出しみたいなブリーフィングで届けてみましょう。


簡単に分かりやすい体験に、中国からの黄塵で西空がくもっている日の夕方の太陽を見るといいであろう。
白くて、白昼の真上の太陽の大きさと同じく見える。
決定的なことである。
しっかりと観察すれば、色の赤色化に比例して大きさが違っていることも見えてくる。
なぜ徐々ににじんで薄れて見えるのでなく、ある程度くっきりと輪郭線を持って見えるのか。
にじみはにじんだ空の空気の色を見ているのであり、輪郭線は曲がりなりにも太陽から直接届けられている光を見ているのである。
また、秋の日の青空は、散乱反射してしまった光が大空に滞留している姿である。
人の眼は、近代人が騒ぎ疑う以上に、堅固な客観性を備えて外界を頭脳内に映し現しているようである。



何百年かのピクルス瓶があって、その蓋布の紐を解く

羅列行にも公示することによって、組織の覚悟が定まるのであればいい。
コピーアーはコピー係りに過ぎないのであるが、いずれにしても新聞記事にも劣る見出し程度のもので、プロの仕事を成したとはいえない。
埋もれてきた実際の著者達の気持ちを考えると、この不正直な地下活動の不純な便秘状態が薄気味悪くてしようがなく思えることがある。
どこかの神経辺りから、段々地球が腐っているのではないかと、落ち着きが悪い。
こういう矛盾を見つめてにやっているような親分の、こころの表情が見えてくるようである。
たっぷりとした悪さの動機になっているのである。
先生方はかなり自覚しておられたようだ。
俺の下に地下があるんだものな。
無念。
「ほどけた」と語られたいう。
自覚のない自信満々の他の先生方を見ると、仲間内でも、さっぱりと白状することができなかった、と話しておられた先生もいたという。
まるっきり無知識無能力で影響を受けるのとは訳が違うのであるが。
正直な率直な先生方の反応の例を明かさせていただいた。
すでに相当に不公平に日本国の庭の登場人物を収集して来た世の中である。
どうしてくれよう、と頭が一人で巡るようなのかもしれない。
ボランティアのように心広くある程度で引き下がる、というようなことはないだろうか。
とにかく何でも正直に打ち明けられるものなら、忌まわしい不当所得を為さない形で明かしてしまえば、いくらかはさっぱりした気持ちになれるのかもしれない。


このブログの質問箱で答案として書いたものがあった。
ささいなものにすぎないが、どうせならここに並べるのも、先生の気持ちに沿うことであろうか。


次元というものは可能性として、広げられたものである。
数学の世界である。
マイナスの個数というものは実在しないが、計算便宜上有効である。
数字の列は直線であり、虚数に至っても、空間的な広がりのアナロジーとぴったり重なってはいない。
ただし、ベクトル位置数が三次元空間グラフで表現されるのとは違うことである。
いずれにしても自然感覚的に把握される存在とは別世界の「空間」がシュール的に拓かれている事は刺激的である。
そもそも幾何学はずっと二次元世界である。
距離は直線で測る。
地球上の二点間の距離は地図で測る。
地図は生の地球でなく、平たい紙である。
実際の最短距離が平面上曲線であることは意外であった。
実際は三次元空間でも人の進む最短距離は直線である。
地球の中を通れば。
とにかくこのヒントにより非ユークリッド幾何学の妄想が始まったと言える。
複素数虚数は計算上有効であるが、非ユークリッド幾何学は利用されることによって、長く人類の頭を狂わせてきた。
ユークリッド幾何学は本来三次元世界の幾何学であり、そのまま物理実在界の型枠としてあてがわれる。
その例を次回羅列してみよう。


ピクルス壜の続き

宇宙が距離に厳密に比例して膨張加速度指数を上げていくことに疑問を持つ科学者は少ない。
あまりに形式的なまで数学的に、宇宙年齢と反応している。
しかも四方八方全くの差異ない加速度の進展振りである。
観測点地球の位置が、宇宙空間で個性のない、抽象性の向こう側に消え去っているかのようである。
観測される赤化現象に誤り偽りがあるというのではない。
理由は秋の空が青々としているように、観測点からの空間分子量の正比例増加に求められている。
だから宇宙全体の色を認められるなら、宇宙はやや青い、といえるであろう。
これによって、形式的にまで思われる完璧な距離比例の加速度指数という、長い妄念を取り除き、単純な説明によるもっと落ち着いた広々とした世界観念に立ち返って、晴れ晴れと空を仰ぐことができるのである。
ユークリッド幾何学からアインシュタインの4次元体という実体物が人類の世界認識に想定可能とされ、それが、ハッブル指数の距離比例とやはり厳密な等方向性の奇問の発生と実に間がよく出会い、どんぴしゃりと運び込まれたのである。
これは歴史の奇遇である。
もはやグロテスクなキマイラ非現実体状の世界認識列車の勢いは止まることをしらなかった。
のっしのっしと大またに大手を振ってのし歩き、世界を占め、世界の片隅でさえそれに咳一つする者もいないことになっているのである。
また、多次元妄想は素粒子の数学にもどっさりと持ち込まれ、一生涯の大学教授の給与当ての仕事量でもあった。
とりあえず、宇宙全体には人間に観測証された成長年齢というものはない、と言うことができることを記しておきたい。


科学だけの話でない、一人一人の人生観も変わるようなお話である。


ところで、コピーアーはコピー係りをしているだけで、人の物まで盗んで偉くなりたいというので、仕事をしているのではない。
人を殺めてまで、「けいさつ」してまで世話をしてくれとは絶対に頼めない。
頼んだこともない。
また、人を殺めて他の人に成り代わってまでして面倒を見てもらうことなど、絶対にお断りしたい。
殺人犯の殺人遊びである、と見極めて欲しい。
絶対に、目的にあう殺人と人の入れ替えではない。
また、歩くにも付いて下さる、というのはあまりに申し訳のないことである。
こちらからはお断り申し上げるだけの立場しかない。


ピクルス壜の続き

数学の直観と証明というものは、門外漢には分かりにくい事が多い。
一足し一は二である、これは先天的総合命題でトートロジーである。 二とは根本的には一たす一という意味である。
トートロジー連鎖体系内の真理として例えば、円の面積がある。 証明と共に公式が立てられたのか、すでに真理として確立されているものの証明としていろいろ工夫されることがあるのか。


これは直観に過ぎない表現であるから、直観を使わない証明を為せという程の奇妙な事があって、子供っぽい偏った原則主義にこもって大儀な手編み仕事を積み上げていることなのだろうか、本日の朝日新聞に、ジョルダンの曲線定理が120年経て「完全照明」されたという記事があった。
20万行に及んだという。
「平面上の閉じた曲線は、その平面を内と外の二つに分ける」
平面上に閉じる、と内と外の二分は、すべての代数計算式の右辺と左辺が同語反復である如く同語反復の基本的なものでないだろうか。
何の嫌疑をかわす為に20万行にも及ぶのであろうか。
微積分の発見を無証明な経験的出会いというなら、すべての数学が同じように経験的で、しかも先験的統合というべきトートロジーである。
証明とは、未知全体のトートロジー内において、どこからどの部分から対応物を組み立てるかに過ぎない。


ところで宇宙に年輪のような成長年齢のはっきりとした証拠がないとすれば、宇宙は古来表現されてきたように真実悠久である、といえる。
大爆発の跡などは無限にあるであろう。
永遠というものは、モータルな人間にとってなじみのないものである。
しかし最初と最後を置く、かえって安直に物語的で、表面的に実感的な宇宙観よりは、遥かに深く論理的である。
永遠の昔に宇宙は何をしてきたのであろうか。
ほとんど今と変わらない姿で、生命への進化をどこそかに秘めていたのであろうか。
永遠の涯の未来にもまた、飽くこともなく。
宇宙全体というトートロジーを自己否定的に爆破する力は、内にもなく、また外から借りることもできない。
消え失せるということを宇宙は知らない。


以上、また以後も、イギリス人の先生からのご報告であり、地下の運動員の方達の無償のご協力でコピーできている事を、再びここで記し、剽窃誹謗の誤解のないよう皆様のご確認をいただきたい気持ちである。
運動の終末に役立つ事があれば幸いである。