組織の子供っぽい犯罪性を止めるためにも、組織の馬鹿にならない名誉である、究極の哲学と物理学の断片を。組織はそれをコピーする東洋人にくれてしまうのではない。


ロケットがどうして真空宇宙空間をエンジン噴射によって飛び続けられるか、爆発気体分子がロケット本体固体壁に衝突した反作用による。
外に噴射するからでなく、外に噴射された気体分子は反作用を起こすことなく、爆発運動のまま外に出てしまうからである。


究極の粒子運動のアナロジーを見つけようとしたら、重力の作用をあまり受けない浮遊物の電気作用の薄い自然現象を捜すことである。
電気どころか重力の働きをも前提しない根源存在のふるまい。
眼に見えないように小さい宙に浮かんだホコリのようなものがそれに近い。
大気中分子ではだめである。
空気はなかなか粘っこい。
気団、一陣の風、突風、上昇気流、これらはいまだ明かしきれていない、大気分子の電気反応性の奥行きを見せつけているものである。
雲から飛び出した竜巻の腕も、重力と電気の束縛を超えた水分子の運動と考えられる。
電気も重力もなく自立的に長く持続する現象のヒントといえば、竜巻運動であったのである。
直観的に古くからこのことを言う人はいて、忘れられた地震のように繰り返されて啓示的に言われてきたようである。
すでにギリシアの物理哲学者が物質の変異の始まりとして竜巻を指差している。
早くから、直観的に啓示的に、論理と自然の観察の科学の知識もなく、究極の真理を言い当てているということが、人類史の不思議としていくつか思い当たることがある。
鮮やかにも珍しくも眼にする自立的な空中浮遊活動は、口の中からつつき出された煙草の青い煙の環である。
最初の物質は閉じられたチューブ状の竜巻運動であったと言えよう。
最近のリング論も、チューブ状の運動の自立性の感得の歴史とは全く無縁に、数学的に編み出されたもののように見えて、古来の究極真理の直観に我知らずも引き寄らされているのであるのかもしれない。


 しかし、水も煙も電気的粘性による一団性を有している。眼に見える空中の無電気力塵の動きはその随伴物に過ぎない。塵主体の動きというものは空中水中では眼にすることができないのかもしれない。
 運動の完全一団性の成立というものが口中から出される煙草の煙の輪の内実であろう。胴内は希薄になっている可能性がある。


生存のために発展した知覚の豊富な差異と、それに対する冷静な意味づけ、レファランスと判断、このようなものが、人間の意識の中身である。
その素朴な原初的な部分の描写がハイデッガーの「存在と時間」にある。
人間にとって大きな実在、意識、実存、観念性というものは、客観認識の伴というもので、そのものをそのままに客観認識の対象物とすることはできない。
しかし一切の現象を科学的に認識できないという主張を支持しているのではない。
意識という実在と、客観認識の対象である実体界とは、決して二元的に別世界のことではないが、人間存在の基本条件として、見られ方が違うのである。


ついでに自由意志。
先の事を知っている人も神様もいない。
誰かが人の運命を、先んじて統べているというものではない。
すべてが誰も先にいない最前線にいる。
人間は更に、先を考え行為を決定するという未来性にある。
しかし、どんな人にでも、先のことは確率的にしか分からない。
がんばればよくなる、確率が高い、そうであれば誰でもがんばろうとする。
先んじて、どうせ、という決定的予測占いは真実には誰にもできない。
予測してがんばる、それ以上の美徳はないという実態で世の中は動かざるを得なくも動いている。
自分がどこに置かれているか、本当の事が分かる人など一人もいない。
どうせだめだったと今分かるような物理はない、がんばればよくなる未来にいるという確率的直観より、人生の目利きの予想見はない、という現在にいるだけが、人間の余地であろうと思う。