孝明天皇自らの信念が、攘夷思想のエネルギーの源となる原点であったようだ。


かなりの行動力指導力を発揮された方のようだ。
この千年の変動の時において、国土の防衛を、誰にも任さず自分こそやらねば、という自負の気概でおられたようである。
インド中国の先例を見て、白人を毛嫌いするほど警戒と疑いの目で見ておられたのであろうと、想像される。
そのため、イギリス側が長州藩士団や岩倉具視などに何かの策略を押し付け強く働きかけたと思われる動きが、史実からも読めるような気がする。
若い志士達も、日本を変え、日本国を守る為に、思い切り外国人の用意に寄ったものであろうと思われる。
新たな錦の旗の下、思い通りの日本国の運営を目指したのであろう。


慶応2年、12月12,3日頃疱瘡にかかり、快方に向かいつつも、25日深夜に急死されている。