村上の家は、泥棒を追いかけて、橋を渡る前に縄を掛けた家であった。


倉に小豆とかのストックがあったらしい。


お寺の過去帳の管理の仕方か、お寺に行っても直接過去帳に当ることができなく、和尚さんのお墨付きということで、初代、二代、三代と先祖名を教えられていたようである。
年代を見ると一代か二代抜けていたようで、初代というのも根拠がなかった。
先日生まれて初めて、数百年の先祖の檀家寺に過去帳を調べに伺った。
和尚さんの話から、京都の大学に修学に行っている間に、頼んでいた地域の妙行人代理人の者が何と過去帳を襖紙に使っていた時代があった、ということが分かった。
それで、先祖の系図の不自然の理由が明らかになったのであった。


明治十年ごろに武蔵は父を失い、弟と母の母子家庭になっていたのではないかと思われる。
地味な性格で、運動の組織員が声を掛けたときは、忙しい、と言って断ったようである。
鶏小屋を直していたらしい。
組織から紹介された女性と見合いもさせられたようだ。
もしかしたら、里見京子という名前かもしれない。
後から、周辺に似たような名と顔の人が何度か登場する。
歌手にも似たような人がいる。
後に隣家から叔父の嫁に、思えば似たような顔の人が薦められていたのである。
しかし武蔵は堅実に見ず知らずの家の娘を嫁に取ることはしなかった。
ところが他の部落から嫁をもらうと、地域の者までそろって縛るように第一子に不倫の子を産ませるよう強いられた、というような話があったらしい。
あったとしても恥ずかしいことだろうから、決して後に語り伝えられていた話ではない。
その後運動はすっかり武蔵の眼の前から失せて、挨拶もなく後ろから付くようになったという。
従って若い頃には、この地下運動というものは部落から消えてしまったものと、ずっと思っていたのかもしれない。
運動との付き合いには何かの恩恵があったり、これからの恩恵への見返りに何かを約束させられたものらしい。
村上の家ではなぜか箪笥がいい、と言ったという。
縛られたのでもあれば、地味な農家として、強制的な運動にはあまり乗り気ではなかった証拠ではないかと思われる。
後腐れのないよう、一回きりの形のはっきりとした物との決算で、関係を早々と終わりにしたかったのであろう。
写真などに写される気はなかったようで、他の家族みたいに、写真機の前に自分から立つようなことは一度もなかったようである。
関東大震災までは何事もない農家の長男であったようだ。


桂小沢の家の場合と全く同じように、天皇陛下の忠実な臣民である事を求められたと言えよう。
武蔵の場合芝居ではなかった。
小屋の中で、娘が一人申し開きするよう迫られた。
しかし言葉が出ない。藤純子のように、単身女だてらに乗り込んで、仁義を切ることはできなかったようだ。
この場合、日本語ができなかったのである。
貝の様に口を噤んでいた。
後で、芸人のつもりで、歌ったり踊ったりしたのかもしれない。
四銭、という言葉は部落内の他の人が、よかった、よかった、と穏便に解放してやろうという情けから出た言葉であることがわかる。
社会主義革命運動の暴動報道があったばかりで、運動だな、運動だな、と何回も繰り返して確認しようとしている。
うんどん?
足踏みを始めたようだ。
他の部落の人達にはイギリスの悪戯芝居であることが見えていたと思う。
(イギリス人に連れられて来た芸人だべや)
芸子に上げる金もねのが。
返す返すも、とお国のためなら何でも一人でもやる気になってしまった武蔵が口にしたようだ。
「物知りでない」
武蔵は大真面目であった。
猥雑な気持ちも個人的な損得もなかった。
「影が過ぎる、影が過ぎる」と言って、前から不審な侵入者がいないか、調べ歩いていたのである。
見つけるとすぐに、「何軒やった」と聞きとがめたらしい。
何軒火付けした? 歩いて見たのか、と隣家の主人が逆質問しているらしい。
しかし武蔵は本気に国の危機を信じ込んでいて、外国人の侵入と地域の被害を恐れ見張りにまで立っていたらしい。
その記念であろうか、エアポート湯の館の前の芝生公園に、鶏小屋と見晴台の二つがそろえられている。
後からも、自分は地域の安全のために尽くしたのだ、と自信を持って部落の人達に主張していたらしい。


武蔵の弟の第一子も縛られたように不倫の子を産まされたのだという密かな伝説がある。
そして不倫同士の子が一緒になり、父健一が生まれたというシナリオである。
修という名の祖父は国の長島鈴懸工場の役人を勤めていたという。
祖母は少し馬鹿が付くくらい人の善い人であった。


健一はその父と母の子でなく、牧場集落から連れられて来た青年の子である、という話があった。
母にはビバルディの血筋が入っていたという。
また、新兵訓練中にか事故で亡くなり、しようもなく急遽、伸なる苗字の者を身代わりに、みちのくに送ったという説もある。
どうせ運動の進行に大差はなかったであろうが、形を保つための処置であったのかもしれない。
昔十手を持っていたらしい。
少年の頃家庭を出て放浪中に、荒くれ者と一緒になってしまい、人の家に入って熊みたいなことの相伴を勤めさせられたらしい。
寒くて一人ぼっちの身の上の上に、あまりおとなしいので断りきれず、黙ってついて行ったと思われる。
そういうことがよくある。
その少年時、飲み屋のねえさんにかくまわれていたことがあったという。
健一は農夫として後に経理員として、一生涯我慢強く、規律正しく、悪運病苦にもめげず、決して無謀に走ることなく、完璧に克苦節制、粗食勤倹の生活を続け通した人であった。
趣味奢りのない節約人生は母の精神とよく合っていた。
病苦続きの、健一陽子夫婦の質素で懸命な生活努力の姿には、振り返ると打たれるものがある。
独学で、大学に値する専門学校経済科を卒えた時が人生最大の夢が膨らんだ時であろう。
夜も眠らずにがんばることが多かった。
教わったものか、精神と生活態度になまなかでない、きちっとした四角なものがあった。


ところが、更に、その夫婦の娘がかの牧場村から、武蔵事件の生まれ変わりに送られて来た者でないかという説がある。
そして、息子は、結局、近隣の旧家から預けられたのではないかという話が出ている。