石の地蔵さんに学ぶこと


(注 日朝の朝は北朝鮮国を指すのではありません。朝鮮民族全体を意味しています)


 岩手県西和賀地方には、年貢米を身で量ったと謡う沢内三千石のおよね地蔵があります。
 他にも、和賀川沿いの旧街道の傍らに、如鱗材として藩に銘木指定されていた欅樹を盗伐した罪により、役人、村役と共に、関係者を代表して身代わりとなり処刑された農民、孫作を悼む孫作地蔵が、ひっそりと小さな祠に祭られています。今でも、近在の人たちの供花が絶えることなく、周囲もきれいに掃き清められています。
 また、盛岡から沢内を経て、奥羽山脈を秋田、横手方面に抜ける白木峠越えの歴史の道に、小さな吹きどり地蔵が、木立の下に隠れるように立っています。秋田県側から登ってきて吹雪に遭った親子を弔うお地蔵さんです。冷たくなった親に取りすがって泣き叫ぶ子供の声が、下の部落にまで風に運ばれて聞こえたと伝えられています。岩手県側には、稀有な雪椿と水芭蕉の群落が道沿いに広がっていますが、季節ごとには人知れず花を咲かせ、悲しみを慰めているのでしょうか。晩春でも、雪解けが遅く、深い雪道を花を見に行く人は一人もいません。
 さらに、県内には、盛岡の、どっしりした十六羅漢があります。寺が焼失しても、ほぼ無傷に残った二十一体の石像群は、どこまでも泰らかで、温容でありながら、生命を愛惜し弔う人の心の気迫を伝え、拝礼する者の心の騒ぎまでも、奥底から静まらせ、平らかに宥めてくれるようです。とこしえの寂滅とでも言うような安らぎをおぼえます。
 二代の僧侶が、餓死者供養の大決心を起こして寺を出、藩内を歩き、幾万人もの人の喜捨を得て、さらに多くの人々の作業奉仕によって成し遂げられた大事業で、封建時代には珍しい、大規模な、民衆による供養ボランティア活動であったと思います。
 遠野にも、同じように飢餓者供養の五百羅漢群があります。これは、一僧侶が、こつこつと何年にもわたって自然石に挑んだ跡です。
 先日、釜石湾を望む丘で出会ったものに、佐藤忠良の、大胆な、徴用中国人の犠牲を悼む人体像がありました。人命の尊厳と哀悼を端的に掲げたもので、愛しむべき生命と、祈る心の確固とした人間性の標が、青空の下に永遠に輝かしく交響していました。それは、また拝礼する者に、根本からの明るい望みを開き、迷いなく生き立つべき勇気をも与えてくれるものでした。
 以上はみな、政略とか見せかけの計算とは無縁の、頼まれもしないで、全くの正直から出た自発性の跡です。他人の生命をも強く愛惜する、静かなあるいは激しい人間性の表れ。昔から埋もれ尽きることなく連なってきた、宗教性というよりも、より広やかで根源的な人間自然の一つの太い「人の道」。エゴイスティックな権力者の支配の長い人類の歴史に、純粋な発露の例の跡は多くはないのかもしれません。
 しかしまた、あの幻の平泉の寺院堂塔群全体のエネルギーは、陸奥藤原氏の虚栄や模倣遊楽、または自分達一族のみの現世繁栄来世成仏の願いだけで充たされるものではなく、為政者側から、はっきりと、戦死者の供養を明示した、日本史でも珍しい傾注努力の遺跡であると言われています。
 

 貴協会の追悼記念碑建立及び追悼会主催の誠実な努力を知り、自らの落ち度を思い切りよく反省し、前進する逞しい人間性を思いました。隈なく清潔な正面対処を自らに行い、正直な友情の回復に至ることを望みました。
 発掘清拭荘厳の儀式の古くからの人間の善き習いに従って、両民族間に、ややもすると潜行しててんめんとしがちな、うつ然としたものを払底するまで、洗い清め上げる覚悟のようなものであることも知りました。必ずやたどるべき峠道の、すがすがしい展望点の一つに位置するものと思います。
 日朝関係は、万古不易一衣帯水の、免れざる宿命のパートナーシップであります。多くの方々の努力の成否は、いわば天から人間に課せられた、他の地域にはない重大な試金石であり、何かしら地球の未来をも占うに足る、人間の基本的なふるまいの例として、人類史的にも注目され銘される事であろうと思います。
 過ち多き人間の子孫として、何か寄与できる事があれば幸いであります。


以上、道歩きの見聞によってまとめられ届けられた文章をコピー申し上げます。