付き添いの暇にも読んでいただけたらと、コピーしたものを同封致し

   ます。

 当病院の近くは、国分寺国分尼寺の古いお寺があり、また有名な宮城の萩原が広がっていたところだそうです。この国分尼寺は、長島氏の主と家来7人がだまし討ちに遭ったところで、その墓が並んでいるそうです。長島氏は福岡長島地区の領主様で、その子孫が現在、地域一帯におおぜいおられ繁栄しておられます。
 7人の家来の中に、小原藤五という62歳の老臣がおられました。小原氏は長島家では嫁のやり取りをするほどの、一、二位の家来で、城主でもあったり、また桂小沢の領地に預かったりもしていました。その縁もあってか、その小原氏の裔がお母上の実家の隣組になっております。小原氏は一説茨城県の県名と同じ由来を持ち、その後宮城県南小原温泉近くで長島氏と出会ったそうです。
 たまたまお母上の入院された病院の近くが、古代日本のこの地域の主要道があり、文化の中心地であったことを思い出し、またそばの宝文堂出版の古い本に読んだ事でもあったことを思い出し、筆を取った次第であります。


 善隆さんに聞いたことですが、私の母やお母上の祖父は、大正13年にその年通ったばかりの石山線に轢かれて亡くなったそうです.大正12年には関東大震災がありました。53歳でした。日露、日清両戦役を務め、八人の子供を育てた、親譲りの実業家だったのですが、大酒のみになって寄り付けない人になってしまったと、私の母がよく話していました。草分けの田畑をすっかり借金のカタにしてしまったということで
す。
 長男の隆太郎(母の父)は、やっと覚悟を決めて家に入り、一生涯分別ある質素な生活を送り、借金返しに身を捧げたそうです.それはすべて自分の為でなく、家の復活と子孫の繁栄しか頭になかったからです。
 冷静、決断、忍耐、賢明、親の不運には憤りを秘めた人生だったと思います。自分を含め七人の兄弟たちは皆まじめな人生を全うしております。


 小国村の他の草分け、名主級の旧家と同じ長島町の家から出たそうですが、その記念に植えたもみの樹が相の沢に残っていて、福島県で一番、日本でも六、七番の巨木にランクされています。小国村でこれだけのレベルのものは他にないでしょう。母の実家にもあったはずです。ちなみに私の家があった村上部落の神社にあるもみの樹も、福岡及び小国地区内では第二番目に位置しているようです。
 昔ちゃんと開拓に入る場合、先ず先住者に挨拶したもののようです。その家の主人を草鞋親と言ったそうです。母の実家では、小国通りの旧家にわらじを脱いで、挨拶をしたものと思われます。その時に草鞋親が自分の名の一部を授ける儀式が行われたのでしょう。代々堅く、一代おきに、婚儀の折に隆右衛門を襲名してきたそうですから、間違いなく、わらじ脱ぎ襲名のいわれを伝えているものだと思います。
 相の沢では、やはり小国通りの旧家の氏、小田島を名乗り、代々理助名を襲いでいたようです。母の実家のすぐ後ろの蓬沢集落は皆、その相の沢の理助の分家に当っていて、小田島を名乗っています。小国の小田島氏は、福岡市にも大勢おられる小田島氏と同じで、長島氏主家の血筋を引いておられます。
猿橋氏というのも長島氏の分家です。四五十軒はあるでしょう。偉い人が多い所です。
 私の曾祖母に当る人は、母の実家の隣の集落の田村家から来た嫁です。最初姉が来ましたが、若妻のうちに亡くなり、次に妹が来ました。妹も乳がんで亡くなりましたが、山形大学の付属病院の病室が死亡地になっていました。江戸時代生まれの曽祖父はその為に山を売ったということです。先祖の財産を無くしてしまう、と曾祖母は嘆いたそうですが、曽祖父はとにかく嫁思いの人だったわけです。
 理助の家は江戸時代前期から、鉱山山元の家として一番の親方であったので、開拓分家の余裕を早く手にした跡が残っております。母の実家も、裏に、形のいい、他のどこにもような神社と墓地の岡を控えた所に構えていて、がんばってきたようですが、武家の時代に今一実力を発揮できないでいたのかもしれません。


 小国通りは何と言っても高橋苗字の土地ですが、筑後の高橋荘の出身のようです。山形県には同じように名乗っておられる旧家が会津方面にもあります。筑後の高橋というのはかなり繁栄した豪族らしく、平家方と固く盟約を交わした九州勢の一つであったわけです。平家物語にも大将級の主人公として一章に登場しております。その後高橋は江戸時代に至るまで、武将史に現れることはありません。大内氏近辺で家老宍戸氏と戦っている高橋氏がいるぐらいです。筑後の宝満城に長くいた証に、福岡県の小郡市にその地名が残っております。古くは大蔵という官職名を名乗っていた大氏族の子孫で、その名はこの間まで、大蔵省大蔵大臣として伝わっていました。坂上の田村麻呂もその子孫です。苗字としては能狂言大蔵流しか聞いたことがありません。更に、秦氏と手を携えて来たみたいに同じ頃集団で海を渡り、共に繁栄して古代日本国を建築してきたという奥の歴史もあります。
 血のつながりは昔のことであるので、分からないものですが、由縁系統としては、小国村の同姓者はみな、繋がりがあって名乗っているとは言えるでしょう。


 ところで小国村村史に、福島藩の史料や地元の史料を集めた百姓一揆のページがあります。そこに与三右衛門という、隆右衛門の子が登場しております。他にないほど長い経過が記録されています。百姓一揆はやむをえず立ち上がった、年貢取りの方より真っ当で、永遠に公正な行動であり、支配者武器所有勢力と対決した勇気ある実績であります。そのコピーを同封いたします。
 この頃、与三右衛門は60歳ぐらいで、父の隆右衛門は90歳ぐらいとあります。背後に親孝行のテーマがあって長いもののようです。