私はアガか


私は前から韓国人グループ内で、アガと呼ばれていたそうである。
農婦の姿が情けない、という意味も確かにあったと思う。
昔の農民は手習い身だしなみに欠けていることが普通で、化粧も知らない女性の人生が多かった。
しかし、奥深い意味では、父がチなる苗字の韓国人である、ということに拠るらしい。
チなる人は苦労してとうとう、日本国で獄内死を遂げてしまった人らしい。
そのチなる人の経歴証拠から、アガと決まっていたのであろうと思う。
最初から尊敬できたものではなかった。


サン、という言葉があるが、チなる者からの生涯によって、おぞましい漢字を当てるのは不自然である。
ありふれた、発音そのままの言葉として、日本語の敬称用語、ヨウさん、のサン以外に思い当たるものがない。
つまり、私という者は、おとななあまり他人を敬称無しでは呼ばない者なのである。
あまり面白い話でもない。


ところがこの頃伝えられてきた、近親者地域の人達の父に対する陰の発言から、また多くの状況証拠も合わせて、父は新生児の頃からのチなる人の子ではなく、更に、新兵訓練中に入れ替えられて、伸なる苗字の者となっていたことが確かとなった。
最初兄弟姉妹の中には、驚いてしまって、あいつは人でない、と話していたことがあったという。
代用教員として臨時に通い出した学校の周辺でも、無くなっていいんだ、とかと憤っていた人もいて、とうとう警察を呼ばれたという話がある。
まじめな人柄であるから、悪気もなく頼まれたまでで、自分が何かの犯行に及んだわけでもなく、その時は、逃げる気もなくすっかり白状する気になったであろうと想像できる。
しかし、警察は追及を止め、かえって、通えよ、と一言声を掛けて帰って行ったというのである。
実は、前の長男もチなる人の子であったのだが、兄弟姉妹、またその本人もその事には気づいていなかったのである。
とにかく謙虚にまじめに地味に農家の長男を勤めるので、特別に指をさす人もおらず、何となく兄として認めるようになってきていたのであろう。
夜の独学で今の大学経済学部にあたる課程を修めている。
独り米作りに毎日格闘し、兄弟姉妹とも暖かい心配りのある間柄となっている。
事業家として立とうと思ったこともあったようだが、失敗して、その後脳卒中に倒れ、回復後は次男の養育に専心した人生といえよう。
死ぬまで寝る間も惜しむ勤倹貯蓄の生活で、自分自身の喜びと発展には決して人生の重心を置くことはなかった。
自己否定、自己犠牲の見事な人生と、今思い返すことが出来る。
寡黙で誰にも何も語らなかった。


伸なる者の部落は焼き物の産地で、家康の時代から特別に士格を授けられていたようである。
それをにせもの侍のようにからかわれ、経済なら認める、と口を挟んだ方がいたらしい。
そこでその地域の宗家の長男の方などが、家業と関係ない早稲田の経済学部を卒えたりするのではないだろうか。
武士の位というものはいづれ何かの縁でその時々に授かってあるものであろうから、特別偽物呼ばわりされなくてもよかったであろうが。
藩の経済を支え、ひいては明治維新運動の支えとなった実績実力は認めざるを得ない、と内部に通じている人が明治の代にも評価したのであろう。
武術の訓練に劣ることはなかったという。
鳥羽伏見の闘いにも武勇を発揮し、後に日本国一番の英雄軍人となった人もいる。


健一は家庭の不幸で十代にも浮浪していたようである。
我慢強い人間であるから、根性の悪い犯罪の経験は一切なかったであろうと断言できる。