置くだけで心がないはずの者


武蔵はたぶん、地下活動にすげなくて、みずから「置くだけだ」と言って、タンスを置かせたのではないか。
タンスではないが、誰も触っていないような、農民の勤労生活に全くふさわしくないような贈り物がホコリを被っていたのを思い出す。
その異物侵入的なそぐわなさが、薄気味悪い感じであった。
誰だか分からない外来の者の押し込みであって、自分達が買い入れた真っ当な物ではないという、何か汚らわしい感じが匂ってくるようでもあった。


コピー係りの半生も全く置くだけの電波状態であった。
専門的に安定して取り組む職業も趣味もない人生であった。
たまに贈り物のような電波が届けられていたとしても、ものになるような期待は皆無であったといえようか。
コピーしたとしても、手があまりに稚拙で一目見て眼を背けたくなるような、粗末なそそくさとしたものしか提出できず、他と並べ置けるような製品を成す事など考えられない状態であった。
たまにも届けてもどぶに捨てるようなものだと、特に組織の大将自ら判断していたと思われる。
ベンマンシップは大きなもので決定的なものであるが、それ以上に、あれちゃんと読んでねじゃ、と様子を見て言っていたらしい。
安定的に成人の業にふさうエネルギーを向けて。
だから、特に悪魔というのでなくとも、これから偉そうに自分がやったみたいに何かを口腹にしようとも、あれには、たとえば真摯な、「こころがない」と断じたようである。


結局あれは不可能だな、と言って、自らの計画を進めていたという。
山平の家の者はいわくに拠ればあまりに出入りが繁く、今述べたように実体があろうとなかろうと構わぬばかりでなく、その血統でさえ何の者であろうが、自分達の思い付いた主要な大計画に変わりはなかったのである。
今盛んに言い立てているコピー係りの声など聞いて進められる作戦ではない。
山平の家の者はいることにしても、如何有無の真実などは全く無視して無関係に進めて来た、指導者の世界大作戦であったと言えよう。
大事(おおごと)でなければやりがいのない大組織活動に、どのような者だからといって実際に間に合う者がいるだろうか。
現実にはいない虚像を目指しているから、莫大にエバル者の為の運動という言いがかりが可能になっているのである。